Golf Collectors Society


*若干22歳で全米ゴルフ収集家協会理事になった山崎先生の記録。

 

January 21, 2011

Golf Collectors Society

ゴルフ収集家協会

今から約30年前のアメリカには

ゴルフ関連グッズを集める人の組織があり、

それはGolf Collectors Society (GCS)と

呼ばれていました。

私は、もっぱらヒッコリーシャフトと呼ばれる

木のシャフトのゴルフクラブを集めていました。

当時、私はオハイオ州に住んでいたので、

ある縁から創立メンバーの一人である

Bob Kuntz氏が近所に住んでいたので知り合い、

その後、ずっと良くしてもらいました。

日本のメンバーも紹介され、

最も親しくしていたのが、

故綿平亀雄氏で、

現在も人生の先輩として尊敬しているのが

井原慶児氏です。

当時、ゴルフ作家と言えば、

故摂津茂和氏が最も有名で、

日本のゴルフ編集者として

私に最も目を掛けてくれた

ゴルフダイジェスト社の西澤忠氏に連れられて

ご自宅を訪問させていただいたり、

日本ゴルフ協会の事務所で何度かお会いしました。

そんな大先生が私のことを書いて下さったのが

以下に掲載するものです↓。

*****

狂気の世界 (village of Nuts)

その神秘なる生態学

ゴルフ関連の珍品・奇品・骨董品を収集する

マニア集団、収集家協会

(ゴルフコレクターズ・ソサイアティ)は、

15年のわずかな歴史しかないが、

今や1350人の会員を擁する大所帯。

第1号会員の筆者を筆頭に、

日本人メンバーも10人を数える。

そこで、今章は1風変わった日本人メンバー、

新旧とり合わせて、ふたり紹介しよう。

ボブ・クンツ氏(左)、Norman Yamazaki(右)↑

 あの知らない人は誰なの?ママ

ほら、あの人あたしたちを知ってるわ

気が変じやないの?ママ

しっ! おまえは良い子でしょう

そんなひどいことをいってはいけません

あの人はおまえのパパなのよ

可愛いおまえの、ほんとうよ

あの人があたしのパパだって?

そんなことないわ、ママ

パパは去年の春死んだわ

いいえ、パパは死んではいません

わからずやさんね、おまえは

パパはゴルフクラブにはいったのよ

でもそのクラブがつぶれちやったの

それで歩き回わる場所がなくなったの

パパがおうちに帰ってきたのはそのためよ

さあ、パパにキスなさい

パパは可愛いおまえを噛みはしなくてよ

みんなゴルフをする人は

あんなに気が狂ったみたいに見えるのよ。

 これはわれらがゴルフ収集家協会(GCS)の

最近号会報の表紙全面に、

「ザ・ゴルファー」と題して古風な鶯ペン書体で

印刷されたよみ人知らずの詩である。

拙訳で恐縮だが、まことにゴルファーのイメージを

心憎い様式で詠った無邪気なパロディで、

おそらくマードック会長お好みの詩の1つであろう。

 修辞学と用語学を愛好し、自らもその道の

泰斗をもって任ずる会長は、

われらがGCSをべぶ「狂気の世界」

(village of Nuts) と呼ぶかと思えば、

「聖なる協会」(Sainted Society)と呼び、

またおのれをその「独裁者」と誇称し、

さらにこの変てこな集団の崇高な目的を、

「ゴルフ・コレクションとは

世界的広域における人類の趣味、道楽、熱狂、

乱費、貪欲、執拗、自惚などの混合した

ウイルス性疾患で、これらの誇大妄想狂の

生態学(Megalomaniac Ecology)を分析解明すれば

正にノーベル賞に値いする」ど豪語している。

23カ国、1350名中、

日本人会員は10名

 思えばこのノーベル賞ものの狂気の集団が

1970年に僅27名のコレクターで

呱々の声をあげてから早くも15年の歳月がすぎ、

今や世界23力国の会員1350名(日本人10名)

を擁する大世帯となったが、

まずその27名の顔ぶれから紹介しておこう。

(1)ジョゼフ・マードック、

(2)ボブ・クンツ、

(3)ジョン・チーパース、

(4)レイ・デービス、

(5)ラフル・ミラー、

(6)ローレンス・ヘンリックス、

(7)ジム・ニューサム、

(8)ロイ・ソーン、

(9)リー・セルツア、

(10)パート・ハイズマン、

(11)エミット・クリッチロウ、

(12)オットー・ブロウブスト、

(13)シーン・ヒット、

(14)フレッド・スミス、

(15)ラリー・クロウフォード、

(16)ビル・ベナム、

(17)チョーク・ネザランド、

(18)ショー・ペンドラッキ、

(19)ゲーリI・ワイレン、

(20)グレン・ブラウン、

(21)ジム・ノーラン、

(22)ルー・ディケンズ、

(23)摂津茂和、

(24)サム・シャープ、

(25)モート・オルマン、

(26)ディック・シュレンバーグ、

(27)アル・マーカス。

(注・5,6,10,13,22は死亡)

 この番号は多分指名順であろうが、

次になぜ私が唯ひとりの日本人として、

これら世界的なお歴々の仲間に選ばれたかどいうと、

この2年前の1968年に出版された

ジョゼフ・マードックなる人の評判の書籍目録

“The Library of Golf 1743~1966"を

アメリカのゴルフ雑誌の広告で買ってまもなく、

思いもよらぬ当の著者から突然手紙がきたのが

そもそもの発端であった。

それには貴下が日本のゴルフ・ヒストリアンで

既に12冊の著書を出版し、かつ

執心なブック・コレクターであることを

南アフリカのシュレンバーグ博士が

知らせてくれたので、

貴下の著書全部をいかなる値段でもよいから

譲ってもらえないかと書いてあった。

つけ加えておくがシュレンバーグ博士は

プレトリアの外科医でゴルフ文献の蒐集で知られ、

これより少し前に日本ゴルフ協会に

日本人の蒐集家を問合わせて私を知ったのだった。

そこで折りかえし返書に、

貴下のごとき尊敬すべきビブリオグラファーから

拙著を希望されたのは身にあまる光栄至極で、

ここに喜んで拙著全部を記念として贈呈したいと、

昭和13年(1938)以来の著書12冊の題名を

英訳して小包で送った。

マードックから深甚な感謝状と共に

その返礼として私の垂涎の的だった

稀書チャールズ・マクドナルドの

"Scotland's Gift Golf"(1928)と

アメリカ初期のアマチュア名手

ジェローム・トレバーズの

“Traver's Golf Book"(1913)

を送ってきたのはそれからまもなくだった。

この縁でマードックどの親交が始まり、

やがて1970年のGCS結成にあたって

創立会員に指名されたのであった。

時にマードック会長は54歳、

かくいう私は71歳で年だけは兄貴分であった。

 かくて同年9月にマードック会長兼編集長みずから

綴ったわずか1ページのGCS会報(隔月発行)が

創刊されたが、なにせ会費は無料ときているので

フィラデルフィア郊外ラフェイエット・ヒルの

自宅を発行所とし、

事務員として当年12歳の愛嬢ロレインちゃん

がもっぱら切手貼りつけを担当するという

涙ぐましい奉仕的奮斗であった。

このため私は毎年クリスマスにプレゼントを送り、

彼女のいたいけな礼状を今も大切に保存している。

ついで翌1971年の4月には48名の

最初の会員名簿が作製され、

続く翌1972年3月号の

「会員のプロファイル」欄に

私の写真と略歴とが初めて掲載されると共に、

ようやく会員数が88名に達した。

そして早くも同年10月20日から3日間、

創立会員ロイ・ゾーンの肝いりで

ケンタッキー州ルイズビル市のモーテル

「ラマダ・イン」で、市の後援による

第1回GCSミーティングが催された。

出席者は

ジョウ・マードック、

オットー・プロウブスト、

ボブ・クンツ、

ジョン・ムロス、

ネビン・ギブスン、

モート・オルマン、

ロイ・ソーンなど古参17名で、

各自持ち寄りの自慢のアンティークスを並べて

品評、鑑賞、トレード、ゴシップ、探究と

飽くことを知らぬ陶酔の3日間を過した。

これを詳細に報道した翌11月の臨時増刊号が

なんと1気に16ページとなったのをみても

その熱狂のほどが知れよう。

はたしてこれを機に会員数が

1躍102名の大台を記録すると同時に、

それまで鳴りをひそめていたGCSが俄然

狂気の集団の形相を呈し始めたのであった。

こうなると勢いお台所も不如意になったとみえ

1974年にそれまで無料だった年会費が

初めて5ドル(現在は15ドル)となり、

会員ハロルド・フォン・ワイルが

最初の栄誉ある会計係に任命された。

これぞ勲章モノ!?

スコアカード収集の王者

 私が2番目の日本人会員として

スコアカード収集家の東京は西銀座の

割烹「わたき」の主人綿平亀雄氏を

GCSに推薦したのはその翌1976年5月である。

(このあど藤岡三樹臣氏と織家肇氏が

相ついで私の推薦で会員となった)。

そして綿平氏のマードック会長宛の長文の手紙が

GCS会報に披露されたのが

翌1977年11月であったが、

いかにも彼の面目躍如としているので

次にその訳文をご覧に供そう。

「親愛なるジョゼフ・マードック様。

長い間お手紙もさし上げず失礼の段お許し下さい。

先生には彭対御壮健で、

お仕事に活躍のことと信じます。

私のスコアカード収集に御親切な助力を賜わり

心より感謝しております。

先生の温かき御指導と17年間の努力で、

去る9月15日でついに世界94力国の

スコアカードを1万枚集めることができ、

それをファイルするのに150冊の

大型アルバムを要しました。

私の長年の夢が目出たく叶いましたのは一に

私の料理店のお得意客と

GCSの多くの親切な会員たちの協力と

援助のおかげで、感謝の言葉も知らぬほどです。

(中略)

私は今64歳ですが、この収集に私の全余生を

捧げようと決意しております。

(中略)

私は1年ほど前から神経痛を患い、

今はゴルフもできず只管健康恢復に努めています。

私は3度ほど腰にコルセットをはめて

プレーしましたが、

苦痛のため散々な目にあいました。

そのうえ両脚に痙攣をおこして

とうとうゴルフを諦めたのです。

然しスコアカードは今も日ごどに増えつつあります。

ここに1万枚達成の御報告かたがた

先生の御親切に重ねて心の底より感謝いたします。

まことに、まこどにありがどうございました。

はるかに先生の奥様とお家族の御多幸を析ります。

敬具、綿平亀雄」

 この手紙がよほど気に召したとみえマードックは

そのあどに、

「ゴルフ・コレクションとは

げに楽しきものよ

そは何故と人問わば

はるか海の彼方のワタヒラなる

未見の友のマニアより

かかる嬉しき便りが来ればなり」

とおどけ口調で馳句っている。

かくて白い割烹着姿の綿平氏の写真と

相模のグリーンでパットのラインナップをしている

私の写真とが並んで会報に掲載されたのが

翌1978年の7月であった。

以来彼はスコアカード収集に益々精魂を傾到し、

遠くは北欧からアラブ諸国、絶海の孤島、

新参の中国までカードー枚にIドルの返信科を添えて

漁りつくして、今や世界103力国のカード

2万5千枚を集め、おしもおされぬ天下一となって

国内よりも外国でひろく知られ、

いずれ北欧の王国あたりから国際友好の功労で

勲章をもらうやもしれないほどになった。

ところがその彼が最近私に、山崎昇という

長野県生まれで今年26識の日本人のGCS会員で、

現在アメリカはオハイオ州立大学の

学生でありながら古クラブの収集に

取り憑かれた末恐ろしい新人がいるから

紹介してあげましょうと、

その青年から来た3遍の手紙を見せてくれた。

読んでみるとなるほど綿平氏が呆れるだけあって

出藍の誉れどころか、上には上があるものよと

私まで2の句がつげなかった。

そこで是非これを日本のマニアの参考のため

「チョイス」に掲載させてほしいと

綿平氏に許可を求めて、ここに発表することにした。

末恐ろしいルーキー出現!

集めたヒッコリー・クラブ

(1985年5月23日付原文のまま)

 謹啓、御手紙拝見いたし私の様な者に対しての

御厚意に只々恐縮するばかりです。

私は日本人ながら長年のアメリカ生活により

米語の方が先にロから出てしまうのです。

そのため先生のような方に対して

失礼でもしないかど恥じることしきりです。

半年程前から祖母が非常に弱くなり

1度日本に帰ってもらいたいと言ってきました。

私が学生の身でありながら古クラブの

コレクションなどという一般では考えられない

ことをできるのは、

実は3年前日本を立つ時祖母が、

"好きなものを買っといで"と

3百万円くれたからです。

そのお金もとうにクラブに消えました。

当初は1950年代のマクレガーのウッドを

集めていましたが2年前ふとしたきっかけで

買ったスポルディング・モーリスタウンという

今世紀初頭のアイアン・セットに魅いられ、

以来折あるごとにマクレガーのウッドと

ヒッコリーシャフトのクラブを交換したり

買ったりするようになりました。

今はマクレガーのウッドは自分で使うVIP67の

4本を除くと何も残っていません。

その代りヒッコリーシャフトのクラブは

自分のアパートにはいりきらず

別にまた部屋を借りて入れてあります。

数は1500本ほどですが

貴重品は十本あるかないかです。

でも1年前58歳の父がゴルフをしたいというので

スチールシャフトでは衝撃が強すぎると思い、

自分用の2セットのうち

マクレガー・デイトン・オハイオ・フォースターの

ウッド4本とアイアン十本のセットを送ったら

それを鑑定した東京のプロショップが

大変高額な値をつけたと聞いて

我ながら驚いています。

1920年頃までのヒッコリー時代のゴルファーは

今のようにセットでは売っていませんでしたから、

3番はスポルディング、5番はマクレガーと、

自分の好きなクラブを1本づつ購入し、

使っていたため、

アメリカのコレクター仲間でも

同じメーカーのクラブでフルセットを

組むのは今では非常に難しくなっています。

私のコレクションを先日調べたところ

フルセットが15ありました。

こつこつとやらなければ集まらないど思います。

私は60を過ぎたらヒッコリーにしようと

決めています。

それは言い様のないねばりがヒッコリーにはあり、

ゆっくり大きく振らないと

良い当たりが出ないのが体の無理なひねりを

防ぐと思うからです。

先生のように70を過ぎたら

ゴルフをすること自体が貴重です。

先生は私ごときものに大変広い心で接して下さるので

私のコレクションの中から1セット差し上げます。

セットはウッド2本アイアン5本パター1本で、

これがGCSのヒッコリー・ハッカーズ競技の

ルールに対応したものです。

先生にお送りするセットはマードック氏と共に

GCSを創立したクンツ氏が直してくれたもので、

アメリカでもヒッコリークラブの修理を

満足にできる人はもう数えるほどです。

昨年5月2日からGCSの会合が

オハイオのデイトンで行なわれています。

私の住むコロンバスから車で1時間半ばかりの

人口5万弱の小都市で

ここに御存知のボブ・クンツ氏が住んでいて

本日はトレード・フェアでみんなが持ち寄った

古クラブや収集品をテーブルに並べて売っていました。

先生も1度お出になるとそれは

もう病みつきになることうけあいです。

(第2信、日付なし)

 GCSの会合も終って気がふっと抜けました。

最終日にオークションがあり色々

興味あるものが出ました。

私はクンツ氏出品の

ヒッコリー・ワンピース・ドライバーが

3年前から欲しくてたまらず

細々貯金したのが千2百ドルあったので

何どかせり勝ち千ドルで買うことができました。

その夜は朝の3時まで見ていましたが

私はまだ学生でそんなにクラブに

つぎこむ金はないのですが、

そこは何とかやりくりしています。

友だちはクラブー本に千ドルも出すとは

正気ではないといっています。

私も早く1人前になって自分で稼ぐように

なったら欲しいものや珍しいものは

全部手に入れて先生にもご覧に入れたいと

考えています。

(第3信、1985年7月3日付)

 今日は独立記念日前夜祭で花火を見てきました。

3週間程シカゴ、ミルウォーキー、クリーブランドに

旅行しましたが、これもクラブ探しの一環で

ミルウォーキーのGCS会員ジョン・ムロス氏の

ところへ行ったのです。

彼はウィスコンシン州最大のコレタターで

古クラブをざっと見るのに1週間もかかりました。

考えるひまもなく次々と見るのですっかり疲れました。

彼は74歳なのに1緒に18ホールを回ったら

グロスがイーブン・パーで、これは驚きです。

奥さんの話では若い頃はレフティ・ムロスといって

そこらのトーナメントを総なめにしたのだそうです。

彼をコレクターでクラブ直しの名人

とばかり思っていたので

すっかりこの人を見直しました。

彼は1万本以上のクラブのコレクターで

GCSでも彼にかなう人はいません。

今回の収穫はフェースの角度が自由に調節できる

パーク・アジャスタブル・アイアン

で1915年に作られたアメリカでは

最も古いもので6百ドルでした。

その後モーリスタウンで1890年頃の

ラット・アイアンと1910年の

スポルディングのニブリックを発見し

2本で千ドルです。

今回の走行距離は1200マイルで車も私も疲れました。

来週はまたクラブ探しにノースカロライナ州へ

行く予定です。

先生も今やアメリカで有名ですので

来年のGCSのデイトン・フェアには

是非御出席下さい。

みな喜びます。

以上

摂津茂和(せっつ もあ)

明治32年7月生れ。慶大卒。相模GC会員。

ゴルフ・コレクターズ・ソサイエティ会員。

日本ゴルフ協会ゴルフミュージアム運営委員。

著書に「ゴルフ千夜1夜」「ゴルフ狂」「ゴルフ物語」

「日本ゴルフ60年史」「ゴルフ心理ど頭脳的プレー」

「ゴルフ開眼」「1流ゴルフの粂件」「ゴルフ名言集」他多数。

 

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