Navigator 尾崎豊


01. Introduction

なぜ、尾崎豊がDENTISTのホームページに出てくる必要性があるのでしょうか?

 

その疑問に対する答えは、今から10年程前のニューヨークにあります。

 

コロンビア大学歯学部の学生であった私は、ふとした縁で尾崎と出会いました。

 

そして、自分の心の深遠な所にひそむ、純粋な願いに従って行動することこそが、後悔のない人生を歩むことであるということを、尾崎に教えられました。

 

尾崎の心から発したピュアなアドバイスを受け入れコロンビア大学を退学し、インディアナ大学に進んで、世界的に優秀な教授陣のもとで切磋琢磨の果てに、技術の頂点を極めたDENTISTの一人と認められるまでになりました。

Norman Yamazaki, DDS. 1993
with Master Melvin Lund
しかし、帰国してわかったのは、尾崎はもういないということでした。
現在の日本の歯科医療は救うことが出来ないほどの最低のレベルにあります。
そんな日本に帰ることになった私が架せられたのは日本人に本当の歯科医療を提供し、歯の健康状態に関し、間違った考え方を正しい認識に変えてゆくということでした。
この使命は徐々にではありますが、達成されています。
今から、何年も経って日本の歯科医療の歴史が評価をされるとき、救済不可能な最低のレベルから劇的に向上したのは、聖G.V. BLACK の治療技術と考えが日本に伝わった以降であることが公になります。
そのときに、その改革の功労者の一人として尾崎がいたことを、後生の人々が知ることができるように、私は尾崎のことを書き残しておく義務があると思ったのです。

1996年04月25日 

Norman Yamazaki, DDS.

02. Appearance

 古い話である。

 

1986年、コロンビア大学歯学部にいた時のことだ。マンハッタン106 Streetにアイビーリーグに属するコロンビア大学のメインキャンパスはある。

 

いちご白書で有名になった法学部図書館と総合図書館とが向かい合う芝生の広場は、ルー・ゲイリックが野球をしたというグラウンドの跡なのだそうだ。

 

その傍らの煉瓦道College Walkは今でもよく留学雑誌などのグラビアに載ったり、ニューヨークツアーバスの寄り道になっているため知っている人も多いだろう。

しかし、この話の舞台はメインキャンパスではなく、そこから北に向かってしばらく行った168 Streetにあるメディカルキャンパスである。

 

場所はスパニシュハーレムと呼ばれるニューヨークの危険地帯の一角にあり、立白昼堂々、四つ角には薬の売人が立ち、殺人や強盗は普通のできごとのように頻繁におこっている所であった。

 

薬の売人はピットブルと呼ばれる犬を護身用につれていた。

 

体は中犬くらいで、一見しただけでは威圧感はそれほどでもないのに、性質は異常で命令を一旦受けると喉仏を食い破って殺戮を簡単に行うという凶暴な犬である。

 

そんな連中が徘徊しているため、一人で大通りを午後1時に歩いても背筋が一瞬寒くなるような出来事や、いわゆる殺気を感じることがある街であった。

 

つまり、俗に言われるスラム街だったのである。GEORGEANという寮の屋上から街を見おろすと、何もかもが、煤けたような暗い色に包まれていた。遠くにはダウンタウンにある高層ビル群が靄の中に浮かびあがり、幻を見ているような感じがした。

 

通りを隔てた向かいには古いが故に、天にそびえ立つような威容が強調された医学部附属病院があった。

 

その20階あるビルの3、4階の2フロアーという僅かなスペースを占めて歯学部と歯学部診療室があった。

 

学部廃止がうわさされていたこの歯学部専属図書館には8畳くらいの狭い1室が与えられているだけで蔵書数は100冊にも満たなかった。

 

これだけで、コロンビア大学が歯学部にかける意気込みのほどがよくわかった。

 

それに比べ、医学部附属図書館は10階建てのポストモダン風のビルで新築間もなく、蔵書数は「数え切れないがたぶん医学部では世界一」と言われていた。

 

*****

 

ある日、歯学部治療室の受付から呼び出された。呼び出すアナウンスのことをPAGINGという。

 

そこにはウエストチェスターのゴルフ場で偶然知り合いになって、何故かおれをゴルフの師と仰ぐようになったコーヘンがいた。

 

実家は裕福でなかったために、ゴルフは歯学部を卒業するまでしたことがなかったが、知り合いや、同業者が皆ゴルフをやるというので、仲間外れにされないように始めた手合いであった。

 

しかし、ゴルフが好きで上手くなろうということではない動機の不純さは、能力の進歩をもたらすはずもなく、結局はいつになってもへたくそで皆の足手まといになるため、一度誘われた人からは、再度の誘いがかかることはなかった。

 

しかし、一応負けず嫌いの性格であったから、このままではいけない、迷惑をかけない程度にうまくなって、常に誰かに誘われるようになりたいと考えていた。

 

だから今のところはゴルフ場には一人で来るしかないため、知らない人と組まされていた。

 

その中の一人におれがいたのである。場所は30ドルのグリーンフィーを払えばプレーできるというセミパブリックコースであった。

 

当時はこの値段を払いプレーするというのはメインテナンスの良いコースの部類に入った。

 

日本で言えば武蔵の豊岡というコースが似ていた。

 

近隣の市営のパブリックは10ドルくらいが相場であったが、何時行っても荒れ放題であった。

 

コーヘンはドライバーよりもクリークの方が距離が出るという程度の実力であった。

 

最初に会った時、力んでばかりいたので、力を抜いて、フィニシュで右の踵を挙げるように、見るに見かねて3ホール目でアドバイスした。

 

すると急に良いボールが出るようになり狙った場所の近辺に行くようになった。

 

コーヘンはその日結局92でまわった。これが人生で初めて100を切った日であった。

 

バーディーも17番のショートホールで取り、これも人生で初めての出来事だった。

 

「何十時間もレッスンプロにレッスン料を支払ったのに、今まで起こらなかったことが、たった1回のアドバイスで起こるとは、あんたはゴルフの神様の使いなのか?」と聞かれた。

 

それから、勝手に師匠にされ、10月まで毎週日曜日の午後を一緒にゴルフ場で過ごすことになったのである。

 

コーヘンはユダヤ人であるから教会へは土曜日に行く。

 

教会は社交の場であり必ず行くことにしていた。

 

コーヘンはENDOdontics(ENDOと略す)と呼ばれる歯の神経を治療する科の講師であった。

 

講師とはいっても給料は月15万円くらいで、収入の大部分は週に2日、大学の施設を使って行う自分の患者さんからの治療費であった。

 

半分は自分で取り、あとは大学のものになった。

 

アメリカの歯学部の教官はみなこのような診療形態で収入を得ている。

 

日本の大学でこれをやると99パーセントの教官は生活できなくなるそうだ。

 

技術がないのに大学の教官になれる日本は、できない教官には天国であり、学生と患者にとっては地獄である。

 

*****

 

コーヘンは35歳、独身で、鼻が大きく、アート・ガーファンクルのようなカーリーヘアーで身長が160cmしかなかった。

 

要するに不男である。ちんちくりんである。

 

従って、白人の女性には相手にされないため、彼女は自分よりも小柄で、ユダヤ人に特別な意識を持たない東洋系の女性を選んでいた。

 

「日本の女性は清潔だから特に好きだ。」と聞く人によっては、問題を起こすような発言をしていた。

 

「実は今、紹介されて来ている患者は、英語が話せないので困っている。

 

しかも少々暴力的だ。

 

全くTP(Trouble Patient)だ。

 

アシスタントをしながら、通訳をしてくれないか。時給15ドルだすからさ」というので付き合った。

 

コーヘンの妹は音楽関係の仕事をしており、ニューヨークでも顔が利いた。

 

特に日本の音楽関係者には知り合いが多かった。

 

確かにMOMAの向かいのオフィスに一度遊びに行った時、壁中に貼ってあった有名無名取り混ぜた写真の中に見たことのある日本人の写真も混ざっていた。

 

郷ひろみや美空ひばりの写真は芸能音痴のおれもわかった。

 

でも北島三郎や五木ひろしがいたのは何故だろう。

 

日本人相手の講演をニューヨークでしていたのだろうか。

 

アメリカ人が演歌を聴いて喜ぶわけはないから。

 

日本から来て、長期滞在しているヤングミュージシャンが夕べから歯が痛くなり困って、知り合いに電話をした。

 

医療関係に知り合いのないその人は仕事相手のコーヘンの妹に相談したのだそうだ。

 

朝一番でダウンタウンの日本の大学を卒業して、アメリカで開業医試験に通った日本人の歯医者の所へ連れて行くと、着くや否や喧嘩して飛び出してしまったのだそうだ。

 

理由は不明である。

 

おれとコーヘンの間ではこれ以降、この患者はTPと呼ばれた。

 

Trouble Patientの略である。

 

だからここでもTPと呼ぶ。

 

TPは当時SOHOで流行っている服装があって、その格好をしていた。

 

同じ寮にジョージアから公共衛生学の大学院にきていたトロイというのがいた。

 

新学期の始まる頃、カフェテリアで初めて会ったとき、話すことがないので、着ている風変わりな服を褒めてやると、自分の着ている服やズボンはアンティークと呼ばれていて、SOHOのアンティークショップが英国の古い工業町の古着屋から良い物だけを仕入れてくるのだと、延々と教えてくれた。

 

TPはトロイの格好と全く同じであった。

 

それが体になじんでいてニューヨークに来て随分経っていることがわかった。

 

多くの短期間滞在の日本の旅行者も、その格好を争うようにしていたが、どこか浮いた感じがあり滞在の長短はすぐに判断できた。

 

ポイントはシャツの襟と上着の袖口、ズボンのカフと靴のくたびれ方にあるとトロイはいつも言っていた。

 

そのひとつでも欠けたら、COOL!とは呼ばれなくなるのだそうだ。

 

トロイにTPのことを話すと「一度その服見てみたいね。」というので2度目のアポイントメントのとき、待合室で紹介した。

 

5分くらいの対面であったが、「あの服にはだいぶつぎ込んでるよ。行っているのはSOHOのKでジャケットだけでも1000ドルはするね。」と評価した。

 

****

 

最初の問診はおれがした。

 

取っつきは悪く、質問に答える口振りも戦闘的であった。

 

要するに態度は相当悪かった。

 

ふてくされている上に、答えも素直でなく、こちらに喧嘩を売るような態度であった。

 

これなら問診の仕方を知らない日本人相手の歯医者の所では追い出されるのは無理もないだろうと思った。

 

しかし、ここはニューヨークであり、だれも他人を信用しない町である。それは普通の自分を悪い奴等から守ろうとする自然な自己防衛的な態度であった。

 

初対面の人に隙を見せると命が危ない、というのはニューヨーカーの常識である。

 

従って予定変更で、問診をフォーマルからカジュアルへと変えた。

 

「お名前は、えー、スペルはOSではなくてOZですね。有名なXムービーのスターと同じですね。エンターテイナーですか。紀世彦さんはおにいさんですか?」

 

下らないおれのジョークに、「いえ、兄は康です。」とまじめに答えたりして、全く嫌な感じはしなかった。

 

直感的にこの人は優しい人で、おれとはうまくゆくと思った。「親戚にJUMBOという人はいますか?」という問いには、一瞬はっとしたらしく、しばらく考えてから、にやりと笑って、「いません。でもCOMBOはよく知っています。いつもマックで食べてますから。」と答えた。

 

おれが大声で笑うと、TPも思いだし笑いをするように笑った。これがアメリカの問診の方法である。

 

まずリラックスさせて緊張をとくのが治療の第一歩なのだ。日本にはこれがない。

 

教える人もいないし、習おうとする人もいない。TPはこれで精神的に完全に解れていた。

 

症状は5本の奥歯が滅茶苦茶な治療をされており、神経の治療のやり直しが必要であった。

 

特にその内の2本は現在我慢出来る限界を越していた。

 

はじめは知り合いが通訳を買って出るという約束で治療をすることになったが、音楽仲間では英語の達人と呼ばれるMASAでも、医療行為になると全く使い者にならなかった。

 

そこでおれにお呼びが掛かったのである。

 

コーヘンが麻酔を打ったとき、「痛てーっ!」と叫んでTPは自分の右手でコーヘンが麻酔注射を持っている右手を掴んだ。

 

コーヘンは怒って、その手を払いのけると、「こんな奴は誰か他のドクターに見て貰ってくれ!」と言って診療室を出て行ってしまった。

 

痛みを持つ患者を目の前にして、去ったコーヘンもコーヘンであるが、悪いのは患者も同じである。TPは自分でも悪いと思ったのか、騒ぐのを止めて、目に涙をためて唇を噛みしめていた。

 

こうなると、もうカジュアルにはいけない。

 

まじめな話をするときが来たのである。

03. Dentistry

「今ここで喧嘩をしたら、困るのはあなたでしょ。あなたの歯を見ていると、今までされてきた治療は滅茶苦茶なもので、やった歯医者の好い加減さが手に取るようにわかる。そんな人種に良い感情を持てるわけがないのも良くわかるよ。おれの人生を振り返ってもとても他人事とは思えないから同情するよ。」と言って何故おれがDENTISTになろうとしているのかを話した。

 

DENTISTというのはアメリカの教育を受けて、学位をとりアメリカ国内の開業医免許を取得した人をさす。

 

歯医者とか歯科医師というのは日本の教育を受け、日本の国家試験に合格した人である。

 

歯科医師は歯医者にはなりたくないから、差をつけるために大学院を出たり、論文を発表したりする人を指す。

 

しかし、治療を受けた場合、結果は同じである。

 

その中でも最悪なのはハカイシャハイシャと呼ばれ治療技術は何もなく、自分の生活のために平気で破壊活動をする者を指す。

 

日本の歯医者や歯科医師の大多数がハカイシャハイシャなのは臨床治療に関しては同じレベルの教育しか受けていないであるからである。

 

また、誠意があっても技術がなければ通用しないのが歯科治療である。

 

だからつまり、おれがDENTISTになろうとしているのは、おれの歯を滅茶苦茶にした歯医者どもへの復讐のためなのであるということを話した。

 

*****

 

おれは長野県の出身である。

 

木曽というと知っている人はいるかもしれない。

 

島崎藤村が木曽路はすべて山の中である、と断言した山奥である。

 

過疎である。

 

日本における医療水準そのままに、今も昔もここはとんでもない地方で、歯医者はハカイシャハイシャしかおらずやりたい放題であった。

 

そこでは破壊活動と歯科医療行為は同義語であった。

 

おれの歯はハカイシャハイシャにかかることによって滅茶苦茶にされた。

 

高校入試1週間前から歯ぐきが腫れて膿が止まらず出はじめた。

 

長尾 という歯医者に行くと、「大丈夫薬で治そう。」と言われた。

 

原因は中1の時、おれが交通事故で前歯を折った時、このハカイシャハイシャの治療が滅茶苦茶だったことに因っている。

 

ENDOの処置を好い加減にしておきながら、保険では白い歯はできない、と好い加減なことを言って自費で4本、当時40万円も取ったのであった。

 

高い歯を入れた以上、歯の中で神経が腐ろうが、骨が溶けて病巣が大きくなろうが、たった2年くらいでやり直すわけにはいかなかったのであった。

 

やり直すにしても、正しい方法はどうせ知らない。

 

この歯はその後も何度も痛くなり瘻孔まで出来たが、歯医者を変えても、この抗生物質投与は変わらなかった。

 

だからおれの体の中には耐性菌が渦巻いている。

 

アメリカに留学する2カ月前にやはり、この前歯が痛くなり、瘻孔からは膿が絶えず出ていた。

 

そのころ通っていた英語学校の友達が、自分の通っている良い歯医者が銀座にあるから、紹介してあげると言った。

 

天皇陛下の歯医者もしているそうである。

 

この友達の家は田園調布にあり、父親は銀座で商売を手広くやっていた。

 

信用するには足りる感じである。

 

その頃はまだ溌剌としていた江添のおやじが学生の時、何気なく始めたリクルート本社の裏にある診療所に行くと、いきなり治療が始まった。

 

受付で保険証を出したのに、帰り際には、あなたの治療は保険では出来ないので、請求書の送り先を教えてくれ、と言われた。

 

仕方なく実家の住所を書いた。

 

しっかり抗生物質と痛み止めをくれた。

 

入り口の看板には各種保険受付とあったのに、薬までもが自費であった。

 

2回目の治療の前に、この歯医者に、「私の前歯はずっと痛くて膿が出っぱなしだったのはのは何故でしょうか?」と聞くと、「素人がそんなこと知っている必要はない。」と言った。

 

「こちらでやっていただければ、同じ理由で歯が痛くなることは、もうありませんか?」と聞くと答えは返ってこなかった。

 

会話をなるべくしない方針のようであった。説明も何も無かった。

 

「だが、天皇陛下の歯医者という話である。特別に寡黙なのであろうか。まあいいさ。世間の常識では名医のはずだ。」と考えた。

 

治療は合計20本になった。

 

費用は当時の高級外車が1台買えるほどで、請求書を受け取ったおやじは0が一つ間違っているのではないかと思ったのだそうだ。

 

しかし、間違っていないことが電話で問い合わせてわかると、息子の将来を思えば、天皇陛下の歯医者のような名医にかかれて、一生自分の良い歯で過ごすことが出来るのであれば、それは金には換えられないと思って払ったのだそうである。

 

おやじの歯も近医で滅茶苦茶にされていたから、歯の痛くなる苦しみはわかっていた。

 

アメリカについて3カ月目、11月の期末テストの2日前のことである。朝起きると、あの前歯に鈍痛があり、口の中で嫌な味がした。

 

瘻孔 から排膿していた。

 

そしてその痛さは朝食も採れない程になり、ちょうど寮の向かいの部屋が歯学部の学生のマイクであったので相談した。

 

すると、今すぐ大学に行って調べてみよう、ということになった。

 

歯学部の診療室に行き、問診を終え、レントゲンも撮り終え、口の中の検査も終わり、教授の来るのを待っていた。

 

その間マイクは何も言わず、困ったような顔をしていた。

 

おれが何を聞いても、これは難しいケースで担当の教授が説明するから待ってくれ、と言うだけであった。

 

アメリカの歯学部は、一人一人の学生がどのような患者を看ているか、他の学生や教官に解るようにレントゲン写真は誰もが見える位置に置いてある。

 

いつの間にか、大勢の学生がおれのレントゲンを囲んでおり、中には「歯を見せて下さい。」と言っておれの歯を見たがる連中も現れた。

 

皆同じリアクションで、見ると、ただ溜息をついて、困った顔をした。いよいよ教授が来た。

 

マイクとは話が着いているらしく目で合図をしながら、おれ (Y) に説明を始めた。

 

教授「何故、歯が痛くなったかわかりますか?」

 

Y「いいえ。3カ月前に東京の銀座で天皇陛下の歯医者に全て治してもらったはずです。」

 

教授「確かに高額な治療をされたのは、歯のクラウンに使われている陶器の技術を見ればわかります。ただ、問題は外ではなく、歯の中にあります。このレントゲンは正しい神経の治療をされた歯です。そしてこちらが、あなたの歯ですが、違いがわかりますか。」

 

Y「正しくされている方は、根の先まで白くなっていますが、私の方は途中までしか、行っていません。」

 

教授「その通りです。そしてあなたの根の先にはこんなに大きな病巣が出来ています。膿が骨を突き抜け瘻孔までも形成しています。これを治して、痛みを無くすためには、もう一度根の治療をしなければなりません。ENDOです。どのように、しなければいけないかわかりますか?」

 

Y「クラウンに穴を開けるのですか。」

 

教授「そうです。そうなると陶器の歯はどうなるかわかりますか。」

 

Y「やり直しですか?」

 

教授「そうです。」

 

たった3カ月しか経っていないのに、ダメになるという事実に愕然とした。

 

しかし、今現在、痛い以上、やってもらうしかなかった。

 

Y「わかりました。お願いします。」

 

教授「はい。それでは今すぐかかりますが、問題はこれだけではありません。よくレントゲンを見てみましょう。まず、この歯、そしてこれ。次は...。」

 

*****

 

結局、天皇陛下の歯医者がした20本の歯は全てやり直しになった。

 

たった3カ月で高級外車一台の金は消えたのである。

 

ENDOの手抜きが原因であった。

 

目に見えない歯の中は徹底的に手を抜き、見える外側は美しく飾りたてる、これが医療行為なのだろうか。

 

「ぼったくり」という言葉があるがこのような状況のためにあるような言葉ではないか。

 

学生が皆困った顔をして黙ってしまったのは、少なくとも自分がなろうとしている職業人の中に、こんなひどいことを平気でする人間がいるという怒りと、日本は歯科医療に関しては非常に遅れている国だという諦念、そしてそんなことをされた患者への同情の気持ちからであった。

 

マイクはアメリカならこんなハカイシャハイシャは訴えられて業務停止に確実になる、と言った。

 

この時の教授も、これは明らかに、手抜き治療であるとアメリカなら判断されて、しかるべき手続きがこの歯医者にくだされるだろう、と言った。

 

しかし、この歯科医院は1997年現在も日本の銀座にあり、自費の多い保険医療機関として盛業中である。

 

ただ株で失敗して借金は2億あるそうだ。

 

おれにこのような治療をしたハカイシャハイシャは大先生として今でもいる。

 

*****

 

おれが日本の歯医者に復讐を決めたのは以上のような体験をしたからであった。

 

この時、アメリカでやり直した歯はいまだに快調である。

 

16年前に治して以来、歯が痛くなったこともないし、詰めたものが取れたということもない。

 

それはおれが受けたアメリカの治療はアメリカの中でも名医を選んでかかったせいでもあろうが、神経の治療をしても定期的に歯が痛くなるとか、詰めたものは1週間で取れ、かぶしたものは3カ月で取れるという日本の治療は一体何なんだろうと思う。

 

矯正をすれば4年以上もかかり終わるや否や数年で元に戻ったり、ブラケットの跡が虫歯だらけになったり、咬み合わせの治療をしたら顎が痛くなったり、審美歯科という名のもとに何でもない歯を削られたり、挙げ句の果てに歯がなくなると、インプラントという予後が全くわからないものをやられたりして、日本人は歯医者によって破壊と恐怖にさらされていると痛感する。

 

*****

 

おれの身の上話が一段落すると、TPは、「じゃ、先生がやってくれよ。」と、おれに言うので、おれはまだ学生で、あなたの症例のような難しいのは出来ないのだと話した。

 

コーヘンはニューヨークでも有数の名医で、おれがあなただったら謝ってコーヘンにやってもらうよ、と言うと、TPも状況が把握できたようで、「じゃ、先生から頼んでもらえるかな」と言った。

 

おれはコーヘンのところへ行き、事情を説明した。

 

本人も反省しているというと、「じゃ、やってやるが、このTPは特別料金にする。」と言って倍近い値段にした。

 

おれがどうもニューヨークジュウと呼ばれるユダヤ人になじめなかったのはこのような金銭に対する一面も影響していると思われる。

 

*****

 

2回目のアポイントメントにTPは40分遅刻してきた。

 

約束時間の15分過ぎてもTPが現れなかったため、コーヘンはキャンセル料金を徴収するよう受付に命令していなくなった。

 

おれは時間があったので待合室で教科書を見ているとTPが来た。

 

別に急いでいる様子も、悪びれる様子もない。

 

コーヘンはもう今日は診ないからキャンセル料を払って帰ってくれと言っていたと伝えるとTPは怒りだした。

 

「歯医者がなんでそんなでけえ態度ができるんだよ!」と言うので、アメリカと日本の治療形態の説明をした。

 

アメリカは患者さん毎に治療内容を考えながら時間を取ります。

 

少なくとも1時間はとるでしょう。

 

今日は2時間でした。

 

それはそれだけのことを計画したからです。

 

できる治療は一度のアポイントメントで終わらせることはドクターにとっても患者さんにとってもメリットのあることだからです。

 

今日あなたが払う金額は前回お話ししたように2200ドルでした。

 

コーヘンはあなたが寝坊したことにより2200ドルの損害を受け、あなたはまだ歯が痛いままです。

 

どんな安手のホテルでも当日キャンセルやNO SHOWにはキャンセル料をとるでしょう。

 

アメリカでデンティストとのアポイントメントはとても重要なものとされています。

 

彼女とのアポイントメントと同じくらい重要でしょう。

 

しかし、日本はどうでしょうか。

 

あなたと同じ時間に何人もの患者が予約を持っていたり、時差があってもそれは15分くらいであったりします。

 

歯医者も患者から患者を飛び回っています。

 

治療時間は長くて10分くらいで、何回も来させます。

 

治療費は1000円札でおつりがくるほどです。

 

あなたがドタキャンしても保険請求では来たことにしますから損はしません。

 

中には詐欺師のような連中がいて、やってもいないことをやったとレセプトに書いて不正請求や架空請求をしまくる連中もいます。

 

つまりセコイ商売をしているわけです。

 

しかし、この不正請求が日本の医療費の半分以上にも達するのですから日本の医療制度は詐欺師によって破綻にむかっているのです。

 

そして保険治療というのは、患者が来さえすれば収入になるわけですから、なるべく多くの患者を1日に診ることが日本では目標になります。

 

従って治療の内容は悪くなろうと、デタラメであろうと日本の歯医者は気にしません。

 

そもそも日本の歯医者はアメリカのような臨床トレーニングを大学で受けていないため、歯科医師免許を取っても何も出来ない者が多く、就職してから見よう見まねで覚えるという戦慄のキャリアを積んでいるのです。

 

そのような過程で、デタラメなことをしても保険ならやっていける!ということに目覚め、デタラメな治療をやりまくります。

 

「すぐにだめになった。」という患者の批判には「保険だからね。安物買いの銭失いだよ。」と自分の技術のなさを、自分がぼったくりに利用している制度のせいにして逃げます。

 

では今度は自費でという人には自費で行いますが、所詮はへたですからすぐにだめになります。

 

「自費なのになぜだめになるんですか?」という問いには、日本でしか通用しない歯医者の決まり文句「あなたの歯は弱いんですよ。」で対応します。

 

そして「じゃ、やり直しは保険でやりましょう。」と失敗してもまた保険のせいにできる気楽な方法を、誠実な顔をして患者にすすめほとぼりをさまそうとします。

 

ここまで話すとTPは、「先生の話は説得力があるね。」と急におれをほめだした。

 

褒め殺しかと思っていると、「じゃ、罰金払って帰るよ。つぎはいつ来たらいいのかな?」と殊勝なことを言った。

 

受付で事情を話して、キャンセル料を払い、次のアポイントメントを取って帰った。

 

この後2回のアポイントメントにはちゃんと時間の5分前には来ていた。

 

話せばわかるやつだった。3回のアポイントメントで痛みの元になっている病巣のある2本の治療を行いENDOの過程は終わった。

 

それはTPがもうニューヨークにはいないから痛いところだけを治してくれと頼んだからである。

 

TPは、「ヨーロッパにも暫く行くかもしれないので、良く持つ材料で開けた穴を塞いで下さい。」と言った。

 

コーヘンはアマルガムを使った。

 

TPが「どのくらいもちますか」と聞くと、コーヘンは「歯が割れるまで。」と答えた。

 

そして「割れるのが嫌ならクラウンにしたほうが良いでしょう。ゴールドのね。」と付け足した。

 

この頃はTPもコーヘンとはなんとかやれるようになっていた。

04. Conversation

最後のアポイントメントは金曜日であった。午後に授業のない日である。

 

「昼をおごるからさ、どこかに行こうよ。」というTPのオファーを受け入れた。

 

「面白いところへ連れてってよ。」と言うのでコロンビア大学本校の近くにあるハンガリーレストランのオープンカフェ(The Hungarian Cafe) に行った。ここはBill 平田が発見した仲間内しか知らない秘密の場所であった。

 

St. John (セントジョン教会)の前にある。

 

ここでおれは一つのことを言っておく。

 

それはここでおれは自分を偉く見せるために、どんな内容の話も作り上げることが出来るということである。

 

多くの自叙伝というのは、そんなものが多い。

 

それをおれは良いことだとは思わない。

 

嘘をつくのはおれのスタイルには合わない。

 

だから、おれは自分が思い出せることだけを、断片的に書くことにする。

 

直接法での会話は実際の会話であり、脚色はしていないつもりだ。

 

それでも、もし、おれがえらそうな口調になっていると感じられる場合があるのは、この時、おれは尾崎がしていたことを全く知らなかったことによる。

 

おれにとって尾崎は、単に年下の、歯を痛がっている、ちょっとつっぱった日本からの旅行者にしか過ぎなかった。

 

若者の「教祖」と呼ばれているなんて想像もつかなかった。そんなことを思わせないほど尾崎は純粋だった。

 

*****

 

TP「先生、いつか日本に帰るわけ?」

 

Y「たぶんね。いつかはわからないけど。それにしてもその先生はやめてくれよ。まだ学生なんだから。」

 

TP「先生でいいよ。おれ、先生が日本に帰ってきて、病院開いたら一番先に行ってやるよ。少なくとも2本もクラウンにする歯があるし。ゴールドだよ。ウハウハだよ。」

 

Y「日本の保険治療は破壊活動の口実だからしないよ。自由診療のみだから高いと思うよ。」

 

TP「自分の健康と金を天秤にかけるのはバカのすることだよ。でも金なら問題ないよ。心配すんなよ。」

 

*****

 

TP「先生よお、人生で一番大切な物は何だと思う。」

 

Y「愛だとおもうよ。」

 

TP「よくそんなこと簡単に言えるよね。あんたやっぱり俺が見込んだだけのことはあるよ。」

 

Y「それはどうも。自分の体は大切にしないと愛を広めることはできないよ。だからタバコは止めた方がいいよ。」

 

TP「おふくろみたいなこと言うなよ。でも言われて嬉しいよ。ところでタバコって具体的に何が悪いわけ。おれの知ってる日本の医者はストレス解消のためにはいいからって自分でも吸ってるけど。」

 

Y「大量に活性酸素を作るからだめなの。活性酸素はDNAのチェインを入れ替えたり、傷をつけたりして、人間の細胞を正しいものから、間違ったものに変える悪いやつでね。その病気を一般的にはCAと呼ぶ。日本語ではガンというやつさ。そしてこのDNAチェインは親から子へと伝達されるから、タバコを吸ってメチャメチャになった卵子と精子が結合してできた受精卵はメチャメチャなDNAを持った子どもとなってこの世に生をうけるということになる。考えただけでも恐い話だね。」

 

TP「わかった。やめるよ。やめればいいんでしょ。」

 

*****

 

「そんなにコーラばっか飲んだら、虫歯になるぞ!コーラはピザを食べるとき、以外は飲まないのが、アメリカのいい子だぞ!」とラージのコークをがぶ飲みするのを見ておれは注意した。

 

すると「そんなにコーヒー飲まないの!飲んだら胃ガンになっちゃうぞ!」と言い返してきた。

 

そう言った後で、「本当にコーラのむとやばいわけ?」と聞くので、「Dentistは嘘はいいません。特に乳幼児の炭酸飲料摂取は歯と骨にとって致命的です。」と言ったら、「じゃ、子供ができたら飲ませちゃだめなんだ。」とまじめになった。

 

*****

 

この時、カフェで繰り返し流れていた音楽があった。

 

「この曲は静かでいいよね。淡々としてるよね。」とTPは言った。

これは、おれが祖母に何度も繰り返し聞かされた馴染みの曲であった。

 

「離ればなれになっていた魂が、ある目的に向かって行くために、一つの集合体になって強いエネルギーを獲得する」というテーマの曲である。

 

「ZIPPOLIのアリアだよ。古いバロックだよ。キリスト教徒の音楽だよ。」と教えてやった。

 

するとTPは、しばらく考えて、「この曲を聞いたら、おれのことを絶対に思い出してくれよ。絶対だよ。いいねえ。良い曲だよね。なんて名前だっけ。この紙に書いてよ。」と言って、ペーパーナプキンに曲名を書かせた。

 

だから、今でも、この曲を聞くとTPの顔が瞼の奥に浮かんでくる。

 

*****

 

TP「先生さ、好きな言葉ってあるわけ?」

 

Y「“太陽”、“ひとみ”、“愛”、“クリスマス”、“誠実”。他にもいっぱいあるけど。」

 

TP「“太陽の瞳”か。なんかいい感じだよね。」

 

TP「明るい感じの曲って雰囲気だよね。さわるとやけどするかもしんない。」

 

TP「おれ、このタイトルで曲つくってやるよ。」

 

Y「だれによ。」

 

TP「みんなにさ。」

 

Y「勝手にすれば。」

 

TP「先生に会いたくなったら発表するよ。」

 

*****

 

TP「先生がさ、日本に帰ってさ、病院を開いたら判るような宣伝を出してくれよ。」

 

Y「宣伝はしないと思うけど、あなたが心からリクエストするというのなら、東京で出ている外人向けの一番発行部数の多い月刊誌と、外人向けの電話帳に1年間宣伝を出してあげてもいいよ。」

 

TP「する。する。魂の奥底からするよ。」

 

*****

 

だから、おれは1996年の1年間TOKYO JOURNALとYELLOW PAGEに宣伝を出した。

 

しかし、TPはまだ来ない。

 

*****

 

TPは大きな声で笑う好い奴であった。

 

最初に目が合った時、感じた通りであった。

 

マンハッタンの安ホテルを定宿にしていると言った。

 

作詞作曲をして歌まで自分で歌うのだとこの時初めて自分から話した。

 

問診の時、職業を訪ねても、エンタテイナーとしか言わなかったのである。

 

問診表に書かれた住所はマンハッタンにあるどこかの音楽関係の事務所のものであった。

 

*****

 

このあと2回夜にあった。

 

一度目は、どこかの港のシーフードレストランで、二度目、つまり最後に会ったのはライムライトという当時ニューヨークで流行っていたディスコだった。

 

「この雰囲気が自分の曲の中でも一番好きな曲に似ているんだ。」と言った。

 

喧噪の中で、「これやるよ」といって自分の曲を吹き込んだというカセットテープをくれた。

 

30分テープに3曲入っていた。お互いの住所の交換をして別れたが、それ以来一度も会っていない。

 

たぶんTPもおれもニューヨークを離れてしまったために連絡の取りようがなくなったせいだと思う。

 

TPからは、はがきを一度貰ったが、はがきの住所に返事を出すと宛名人不在で返ってきた。

 

TPのような日本人の患者は何人もいたが、結局はその場限りのつき合いであった。

 

まじめにつきあっていると、結局はこちらが後悔するような日本人が多かった。

 

だから多くの場合こちらから連絡を取らず自然消滅させた。

 

しかし、TPの場合はそうではない。

 

いつも気にはなっていた。本当に気になっていたのであれば、コーヘンの妹に尋ねるとかして、住所は聞き出せた筈である。

 

当時は勉強が忙しくて他のことには手が回らなかった、というのは言い訳にすぎない。

 

もらったテープは何十回も聴いた。

 

それは音楽的な才能が飛び抜けていると思ったからではない。

 

ギターだけの伴奏でノイズだらけの録音。

 

これならよっぽど地下鉄の駅で歌っている黒人の方が上手いと思った。

 

テープが伸びて最後はウォークマンの中でスパゲティのようになり、ロングアイランドのランドフィルになった曲たちは、その詞の内容が、おれの心を強く打った。

 

自分がずっと持ち続けていた感情、しかしそれは既製社会の秩序を守るためには、閉ざして、心の中にしまっておかなければならなかったもの。

 

自分は強く思っているのに、その表現方法を見いだせなかったもの。

 

これだけ自分の心をストレートに表現できる才能には驚いた。

 

特に、最初の曲の中にある「夜の校舎、窓ガラス壊して回った」という一節には共感した。

 

それは、おれが高校生の時、何度も考えて、結局出来ないことだったからである。

 

要するに、おれは臆病でTPは勇敢だったのだ。

05. Death

7年ほどが過ぎ、帰国してしばらくして御茶ノ水駅前のCD ショップの前を通ると、大きなポスターが貼ってあった。

 

どこかで見覚えのある顔であった。

 

近寄って見ると、TPに似ていた。

 

名前も同じである。

 

その頃おれが従えていた子分の吉田に「この人は有名なのか。」と聴くと、「超有名ですけど、もう死んで随分になります。ジャンキーですよ。変なやつですよ。ファンはヤンキーだけですよ。」と言った。

 

その足で丸善に行き、TP関係の本を探すと二冊あった。

 

買うと、滝沢に行ってさっそく読んだ。

 

生まれてはじめて喫茶店が看板になるまでいた。

 

おれの知っているTPと世間のTPの評判は一致しない。

 

おれはTPを良い人であると思っている。

 

世間の多くは思っていない。

 

おれはTPは日本を良い方向に導く才能を持っていると思っている。

 

しかし世間の多くは思っていない。

 

もしかすると、このポスターの人はTPに良く似ているだけなのかもしれない。

 

もしくはTPはおれをかつぐために普段から似ていると言われていた、人気のあった人物をかたったのかもしれない。

 

そして今はCITY BANKか国連本部の課長くらいにはなっていて、LEXUSを運転しているのかもしれない。

 

しかし、TPがおれに話した葛藤と伝記の中にある葛藤は似ている。

 

「難破船の少年」の本の話も同じである。

 

おかあさんの餃子のことも同じである。

 

おれがこのTPの話を当時勤めていた国立大学の付属病院ですると、TPの評判を知っている大学教授、教官クラスの医療人は、「その話はあまりしない方が、君のためになるでしょう。」と口を揃えて言った。

 

あからさまに厭な顔をする者もいた。

 

それは、おれが行う治療行為は高度なもので、アメリカ本土でも人口の経済的に優位なトップ1パーセントを対象としており、日本で同等な位置に属する人は、TPに対しては、嫌悪感を持つことはあっても、好感は持たないであろうというのが、理由であった。

 

つまり、自分の患者を減らさないようにするために黙っていろというのである。

 

この人たちは、おれのことを心配して言ってくれているのかもしれないが、この内容の話を聞く度に、おれは、こんな考えをするような人間だけには絶対ならないようにしようと思った。

 

ただ、一人だけ東京にある国立大学歯学部の教授で、「その話はいいんでないの。どっかに載せれば患者がいっぱいくるんでないの。」と言ったものがいる。

 

教授のKである。

 

大学でも保険の権化とか超破壊者とかバカとか呼ばれており、今だに研修医に向かって開業は技術うんぬんではなく、同業者の少ない土地で、何処からでも見える大きな看板を出せば儲かる!というのを口癖にして説教している。

 

治療の技術とか内容には全く興味はない。従って、国立大学付属病院内で行われている診療なのに、Kのやっていることは目をそむけたくなるようなことばかりである。

 

患者は単に保険の点数であり、ジャンキーだろうとヤンキーだろうと、保険証を持っていれば、お客さんだと考えている。

 

従って、何故おれの行う治療は1日3人が限界で、Kの治療は50人でも100人でも平気なのかの理由がわからない恐い教授なのであった。

 

こんなものが何故教授になれたのか全く不思議な大学であり国である。

 

しかも1千万以上の年収はおれたちの税金から払われている。

 

日本の税金は何故高いのか教授のKを見てわかった。

06. Navigator

ライムライトでの話にはつづきがある。

 

TPはおれが一番人生で悩んでいた時、メッセージを持って現れた。

 

それを神の使いとしてだというと、多くの無宗教の人は嗤うだろうが、宗教的な人たち、特に古くから続くキリスト教がDNAの螺旋の中に少しでも組み込まれている人たちや、「聖なる予言」と「第十の予言」を読んで理解できた人たちにならわかってもらえると思う。

 

当時おれは自分の進む道を迷っていた。 

 

「このままコロンビアを出て開業すれば儲かるのは確かだろうが、一流にはなれない気がする。特に日本に帰ったりしたら絶対になれない。」とおれが言うと、「じゃ辞めて、好きなとこに行けばいいじゃん。」とTPは言った。

 

「インディアナにはMelvin Lundという教授がいて、この人に習ったら、たぶん超一流になれると思う。」と言うと、「じゃ、それしかないじゃん。」とマンハッタンを飲みながらTPは言った。

 

「簡単に言ってくれますねぇ。」とおれが困っていると、「だって先生、あんたなら絶対なれるよ。」と励まし始めた。

 

「でも、そうなったら日本には帰らないと思うよ。」と、またおれが悲観的なことを言うと、「今はそんなことはどうでもいいよ。その大先生のところで超一流になることが先でしょ。でも、まあ、そんな心配しなくても、先生は日本に必ず帰るから。そういう運命に生まれている人だよ。あんたは。」と、TPはおれの人生が見えているかのように言った。

 

そして俺の目を見つめるTPの瞳にはキラキラ輝く光があって、その言葉をより説得力のあるものにした。

 

*****

 

この時の会話でおれは転校を決めた。

 

親戚、家族、クラスメイト、友達等全ての者は反対した。

 

おやじは勘当すると言ったし、おふくろはコロンビアにいてくれと泣いて頼んだ。

 

しかし、おれの心は決まっていた。

 

TPの言葉の中に導きを見たからである。TPはいつもUP BEATで話していると元気づけられることが多かった。

 

おれを良い方へ良い方へと方向付けてくれた。

 

目標が決まり、舗装した一本の道をそこまで開通させたとしたら、アクセル全開で走りきることは容易なことだ。

 

キリスト教では道を示してくれる人をNAVIGATORと呼び、最も尊い者とする。

 

それ以降のおれの歴史はTPの言った通りになっている。

 

今、インディアナへ転校した話になると、一番反対したはずのおやじもおふくろも、本当に思い切った良い決断だった、と誉める。

 

だからTPはおれにとっては尊く、かけがえのない恩人である、それは息子を日本に呼び返すことのできたおれの両親にとっても同じである。

 

おれがもらったカセットテープには Graduation by Yutaka Ozakiと細い油性のサインペンで殴りつけるように筆記体で書いてあった。

 

*****

 

おれが帰国した年、日本に帰ってこれたのは尾崎のおかげだと、おふくろに言った。

 

しばらくして、木曽からたくさんの松茸を送ってきたとき、そのなかの一番大きい包みに「尾崎さんにあげてね」と書いてあったのには困った。

 

おふくろはまだ尾崎が死んだのを知らない。

 

そして、たぶん、おれも知ることはないと思う。

 

1996年04月25日 

Norman Yamazaki, DDS.

07. Voice

尾崎の話をインターネットで発表してから12年が過ぎた。

 

その間、いろいろな事があった。

 

嫌な事も多くあったが面白い事も多くあった。

 

G.V. BLACK DENTAL OFFICEの窓の外を見ると眼下に湯島聖堂が見える。

 

この間までこの湯島聖堂を包むように直径が1m以上のスダジイやクスの大木が林立して鬱蒼とした森になり聖堂の建物を半分ほど隠していたが半年ほど前から伐採作業がはじまり先週くらいから完全に見えるようになった。

 

今日、明るくなった湯島聖堂にお参りし拝殿に立つと神田明神からの霊気の流れてくるのが強く感じられそれは皇居の宮中三殿に向かっていた。

 

何十年ぶりかに神田明神と繋がった湯島聖堂を歩いていると色々な声が聞こえる。

 

尾崎は神になったという声が聞こえた。

 

神農廟に参拝した時、早く逃げろ!という声がしたのでなにかが起こるのだと知った。

 

November 25, 2008

Norman Yamazaki, DDS.

08. Evacuation

それは神様の声がしてから3年後に起こった。

 

2011年の東北大震災である。

 

G.V.BLACK DENTAL OFFICEでは診療中で、とても大きく揺れたが、事前に地震が来るのはわかっていたので、家具の固定などの防災対策は終わっていたため、被害はゼロであった。

 

しかしながら、その後の東京の混乱で診療再開まで1週間以上かかったことや、今後、東京を襲うであろう大震災を考慮した結果、ここは一旦東京から疎開することにした。

 

疎開先は地震研究所のビル平田の調査の結果、飛騨高山がベストだと言うことで、震災から約2ヶ月目の5月1日に、あらかじめ目星を付けていた場所を、地元の不動産屋に案内してもらうことになった。

 

2軒見る予定であったが、最初の家の近所までくると、神社があり、飛騨高山の中でも「花の山口」と呼ばれ桜の名所とされている山口の枝垂れ桜が満開で、それがあまりに見事であったので、何か気配を感じて、2軒目は見ることもなく、この家に住むことにした。

 

尾崎豊の両親は飛騨高山出身で、母親の実家はこの神社の近くにあることから、尾崎はきっとここにいて、神様になっているのだろうと思った。

 

その家は、この地区を古くから治めていた豪農池之端三郎左衛門家の本家で、庭に龍神池があり、蔵にはお稲荷様がいて、御蔵稲荷と呼ばれている。

 

その後、人気アニメの舞台にもなり、世界中から聖地巡礼の観光客が押し寄せるような家であったが、桜が満開の日にはまだ、5年以上も人が住んでいなかったので荒れていた。

 

特に庭はジャングルで、かつて高山一と言われた誉れ高い日本庭園の面影はなかった。

 

家は2ヶ月でリフォームして、8月から診療を再開した。

 

庭は回復まで10年くらいかかりそうであった。

 

(続く)