01. Introduction

なぜ、尾崎豊がDENTISTのホームページに

 出てくる必要性があるのでしょうか?

 

その疑問に対する答えは、

 今から10年程前のニューヨークにあります。

 

コロンビア大学歯学部の学生であった私は、

 ふとした縁で尾崎と出会いました。

 

そして、自分の心の深遠な所にひそむ、

 純粋な願いに従って行動することこそが、

 後悔のない人生を

歩むことであるということを、

 尾崎に教えられました。

 

尾崎の心から発したピュアな

アドバイスを受け入れ

 コロンビア大学を退学し、

インディアナ大学(2019全米1位)に進んで、

 世界的に優秀な教授陣のもとで

切磋琢磨の果てに、

 技術の頂点を極めたDENTISTの一人と

 認められるまでになりました。

Norman Yamazaki, DDS. 1993
with Master Melvin Lund

しかし、帰国してわかったのは、

尾崎はもういないということでした。

 

現在の日本の歯科医療は救うことが

出来ないほどの最低のレベルにあります。

 

そんな日本に帰ることになった

私が架せられたのは

日本人に本当の歯科医療を提供し、

歯の健康状態に関し、間違った考え方を

正しい認識に変えてゆくということでした。

 

この使命は徐々にではありますが、

達成されています。

 

今から、何年も経って日本の

歯科医療の歴史が評価をされるとき、

救済不可能な最低のレベルから

劇的に向上したのは、

聖G.V. BLACK の治療技術と考えが

日本に伝わった以降であることが

公になります。

 

そのときに、

その改革の功労者の一人として

尾崎がいたことを、

後生の人々が知ることができるように、

私は尾崎のことを書き残しておく

義務があると思ったのです。

 

1996年04月25日 

 Norman Yamazaki, DDS.

02. Appearance

 古い話である。

 

1986年、ニューヨークの

コロンビア大学歯学部にいた時のことだ。

 

マンハッタン106 Streetに

アイビーリーグに属する

コロンビア大学のメインキャンパスはある。

 

いちご白書で有名になった法学部図書館と

 総合図書館とが向かい合う芝生の広場は、

 ルー・ゲイリックが野球をしたという

 グラウンドの跡なのだそうだ。

 

その傍らの煉瓦道College Walkは

今でもよく留学雑誌などの

グラビアに載ったり、

 ニューヨークツアーバスの

寄り道になっているため

 知っている人も多いだろう。

しかし、

この話の舞台はメインキャンパスではなく、

そこから北に向かってしばらく行った

168 Streetにある

メディカルキャンパスである。

 

場所はスパニシュハーレムと呼ばれる

ニューヨークの危険地帯の一角にあり、

白昼堂々、四つ角には薬の売人が立ち、

殺人や強盗は普通のできごとのように

頻繁におこっている所であった。

 

 

薬の売人はピットブルと呼ばれる

犬を護身用につれていた。

体は中犬くらいで、

一見しただけでは

威圧感はそれほどでもないのに、

性質は異常で命令を一旦受けると

喉仏を食い破って殺戮を

簡単に行うという凶暴な犬である。

 

そんな連中が徘徊しているため、

一人で大通りを午後1時に歩いても

背筋が一瞬寒くなるような出来事や、

いわゆる殺気を感じる

ことがある街であった。

 

つまり、

俗に言われるスラム街だったのである。

 

GEORGEANという

寮の屋上から街を見おろすと、

何もかもが、煤けたような

暗い色に包まれていた。

 

遠くには

ダウンタウンにある高層ビル群が

靄の中に浮かびあがり、

幻を見ているような感じがした。

 

 

通りを隔てた向かいには古いが故に、

天にそびえ立つような威容が

強調された医学部附属病院があった。

 

その20階あるビルの

3、4階の2フロアーという

僅かなスペースを占めて

歯学部と歯学部診療室があった。

 

学部廃止がうわさされていた

この歯学部専属図書館には8畳くらいの

狭い1室が与えられているだけで

蔵書数は100冊にも満たなかった。

 

これだけで、コロンビア大学が

歯学部にかける

意気込みのほどがよくわかった。

 

それに比べ、

医学部附属図書館は10階建ての

ポストモダン風のビルで新築間もなく、

蔵書数は

「数え切れないがたぶん医学部では世界一」

と言われていた。

 

ある日、

歯学部治療室の受付から呼び出された。

 

呼び出すアナウンスのことをPAGINGという。

そこにはウエストチェスターの

ゴルフ場で偶然知り合いになって、

何故かおれをゴルフの師と

仰ぐようになったコーヘンがいた。

 

実家は裕福でなかったために、

ゴルフは歯学部を卒業するまで

したことがなかったが、

知り合いや、同業者が

皆ゴルフをやるというので、

仲間外れにされないように

始めた手合いであった。

 

ゴルフが好きで

上手くなろうということではない

動機の不純さは、

能力の進歩をもたらすはずもなく、

結局はいつになってもへたくそで

皆の足手まといになるため、

一度誘われた人からは、

再度の誘いがかかることはなかった。

 

しかし、

一応負けず嫌いの性格であったから、

このままではいけない、

迷惑をかけない程度にうまくなって、

常に誰かに誘われるように

なりたいと考えていた。

 

だから今のところは

ゴルフ場には一人で来るしかないため、

知らない人と組まされていた。

 

その中の一人におれがいたのである。

場所は30ドルのグリーンフィーを払えば

プレーできるという

セミパブリックコースであった。

 

 

当時はこの値段を払い

プレーするというのは

メインテナンスの

良いコースの部類に入った。

 

日本で言えば

武蔵の豊岡というコースが似ていた。

 

近隣の市営のパブリックは

10ドルくらいが相場であったが、

何時行っても荒れ放題であった。

 

コーヘンはドライバーよりも

クリークの方が距離が出る

という程度の実力であった。

最初に会った時、

力んでばかりいたので、力を抜いて、

フィニシュで右の踵を挙げるように、

見るに見かねて3ホール目でアドバイスした。

 

すると急に良いボールが出るようになり

狙った場所の近辺に行くようになった。

 

コーヘンはその日結局92でまわった。

 

これが人生で初めて100を切った日であった。

 

バーディーも17番のショートホールで取り、

これも人生で初めての出来事だった。

 

「何十時間もレッスンプロに

レッスン料を支払ったのに、

今まで起こらなかったことが、

たった1回のアドバイスで起こるとは、

あんたはゴルフの神様の使いなのか?」

と聞かれた。

 

(参考:山崎先生のゴルフの歴史)<<<info click!

 

それから、勝手に師匠にされ、

 10月まで毎週日曜日の午後を一緒に

 ゴルフ場で過ごすことになったのである。

 

コーヘンはユダヤ人であるから

教会へは土曜日に行く。

 

教会は社交の場であり

必ず行くことにしていた。

 

コーヘンは ENDOdontics (ENDOと略す)

と呼ばれる歯の内部の

神経を治療する科の講師であった。

 

講師とはいっても大学の給料は

月15万円くらいで、

収入の大部分(60万円くらい)

は週に2日、

大学の施設を使って行う

自分の患者さんからの治療費であった。

 

半分は自分で取り、

あとは大学のものになった。

 

アメリカの歯学部の教官は

みなこのような

診療形態で収入を得ている。

 

日本の大学でこれをやると

99パーセントの教官は

生活できなくなるそうだ。

 

技術がないのに

大学の教官になれる日本は、

できない教官には天国であり、

学生と患者にとっては地獄である。

*****

コーヘンは35歳、独身で、鼻が大きく、

アート・ガーファンクルのような

カーリーヘアーで身長が160cmしかなかった。

 

要するに不男である。ちんちくりんである。

 

従って、

白人の女性には相手にされないため、

彼女は自分よりも小柄で、

ユダヤ人に特別な意識を持たない

東洋系の女性を選んでいた。

 

「日本の女性は清潔だから特に好きだ。」

 

と聞く人によっては、

問題を起こすような発言をしていた。

 

「実は今、紹介されて来ている患者は、

英語が話せないので困っている。

 

しかも少々暴力的だ。

 

全くTP (Trouble Patient) だ。

 

アシスタントをしながら、

通訳をしてくれないか。

 

時給15ドルだすからさ」

というので付き合った。

 

コーヘンの妹は音楽関係の仕事をしており、

 ニューヨークでも顔が利いた。

 

特に日本の音楽関係者には

知り合いが多かった。

 

確かにMOMAの向かいのオフィスに

一度遊びに行った時、壁中に貼ってあった

有名無名取り混ぜた写真の中に

見たことのある日本人の写真も混ざっていた。

 

郷ひろみや美空ひばりの写真は

芸能音痴のおれもわかった。

 

でも

北島三郎や五木ひろしがいたのは何故だろう。

 

日本人相手の講演を

ニューヨークでしていたのだろうか。

 

アメリカ人が

演歌を聴いて喜ぶわけはないから。

 

日本から来て、長期滞在している

ヤングミュージシャンが夕べから

歯が痛くなり困って、知り合いに電話をした。

 

医療関係に知り合いのないその人は

仕事相手のコーヘンの妹に

相談したのだそうだ。

 

朝一番でダウンタウンの

日本の大学歯学部を卒業して、

アメリカで開業医試験に通った

日本人の歯医者の所へ連れて行くと、

着くや否や喧嘩して

飛び出してしまったのだそうだ。

 

理由は不明である。

 

おれとコーヘンの間ではこれ以降、

この患者はTPと呼ばれた。

 

Trouble Patientの略である。

 

だからここでもTPと呼ぶ。

 

 

 

TPは当時SOHOで

流行っている服装があって、

その格好をしていた。

 

同じ寮にジョージアから

公共衛生学の大学院にきていた

トロイというのがいた。

 

新学期の始まる頃、

カフェテリアで初めて会ったとき、

話すことがないので、

着ている風変わりな服を褒めてやると、

自分の着ている服やズボンは

アンティークと呼ばれていて、

SOHOのアンティークショップが

英国の古い工業町の古着屋から

良い物だけを仕入れてくるのだと、

延々と教えてくれた。

 

 

 

TPはトロイの格好と全く同じであった。

 

それが体になじんでいて

ニューヨークに来て

随分経っていることがわかった。

 

多くの短期間滞在の日本の旅行者も、

その格好を争うようにしていたが、

どこか浮いた感じがあり滞在の

長短はすぐに判断できた。

 

ポイントはシャツの襟と上着の袖口、

ズボンのカフと靴のくたびれ方にあると

トロイはいつも言っていた。

 

そのひとつでも欠けたら、

 

COOL! とは呼ばれなくなるのだそうだ。

 

トロイにTPのことを話すと

「一度その服見てみたいね。」というので

2度目のアポイントメントのとき、

待合室で紹介した。

 

5分くらいの対面であったが、

「あの服にはだいぶつぎ込んでるよ。

 

行っているのはSOHOのKで

ジャケットだけでも

1000ドルはするね。」と評価した。

 

*****

最初の問診はおれがした。

 

取っつきは悪く、

質問に答える口振りも戦闘的であった。

 

要するに態度は相当悪かった。

 

ふてくされている上に、答えも素直でなく、

こちらに喧嘩を売るような態度であった。

 

これなら問診の仕方を知らない

日本人相手の歯医者の所では

追い出されるのは

無理もないだろうと思った。

 

しかし、ここはニューヨークであり、

だれも他人を信用しない町である。

 

TPの態度は

自分を悪い奴等から守ろうとする

自然な自己防衛的な態度であった。

 

初対面の人に隙を見せると命が危ない、

というのはニューヨーカーの常識である。

 

従って予定変更で、

問診をフォーマルからカジュアルへと変えた。

 

「お名前は、えー、スペルはOS

ではなくてOZですね。

 

有名なXムービーのスターと同じですね。

 

エンターテイナーですか。

 

紀世彦さんはおにいさんですか?」

 

下らないおれのジョークに、

「いえ、兄はYasushiです。」

とまじめに答えたりして、

 全く嫌な感じはしなかった。

 

直感的にこの人は優しい人で、

おれとはうまくゆくと思った。

 

「親戚にJUMBOという人はいますか?」

という問いには、

 

一瞬はっとしたらしく、

しばらく考えてから、にやりと笑って、

 

「いません。

でもCOMBOはよく知っています。

 

いつもマックで食べてますから。」

 

と答えた。

 

おれが大声で笑うと、

TPも思いだし笑いをするように笑った。

 

これがアメリカの問診の方法である。

 

まずリラックスさせて

緊張をとくのが治療の第一歩なのだ。

 

日本にはこれがない。

教える人もいないし、

習おうとする人もいない。

 

TPはこれで精神的に完全に解れていた。

 

症状は5本の奥歯が

滅茶苦茶な治療をされており、

 

神経の治療のやり直しが必要であった。

 

特にその内の2本は

現在我慢出来る限界を越していた。

 

はじめは知り合いが

通訳を買って出るという約束で

治療をすることになったが、

 

音楽仲間では英語の達人

と呼ばれるMASAでも、

医療行為になると

全く使い者にならなかった。

 

そこでおれに

お呼びが掛かったのである。

 

コーヘンが麻酔を打ったとき、

 

「痛てーっ!」

と叫んでTPは自分の右手で

コーヘンが麻酔注射を

持っている右手を掴んだ。

 

コーヘンは怒って、その手を払いのけると、

「こんな奴は誰か

他のドクターに見て貰ってくれ!」

 と言って診療室を出て行ってしまった。

 

痛みを持つ患者を目の前にして、

去ったコーヘンもコーヘンであるが、

悪いのは患者も同じである。

 

TPは自分でも悪いと思ったのか、

騒ぐのを止めて、

目に涙をためて唇を噛みしめていた。

 

こうなると、もうカジュアルにはいけない。

 

まじめな話をするときが来たのである。

 

 

 

03. Dentistry

「今ここで喧嘩をしたら、

困るのはあなたでしょ。

 あなたの歯を見ていると、

 今までされてきた治療は

滅茶苦茶なもので、

やった歯医者の好い加減さが

手に取るようにわかる。

 

そんな人種に良い感情を

 持てるわけがないのも良くわかるよ。

 

おれの人生を振り返ってもとても

 他人事とは思えないから同情するよ。」

 

と言って何故おれが

 DENTISTに

なろうとしているのかを話した。

 

DENTISTというのは

アメリカの歯科教育(8年、日本6年)

を受けて学位をとり

アメリカ国内の開業医免許を

取得した人をさす。

 

歯医者とか歯科医師というのは

日本の歯科(6年)教育を受け、

日本の国家試験に合格した人である。

 

歯科医師は歯医者にはなりたくないから、

差をつけるために大学院を出たり、

論文を発表したりする人を指す。

 

しかし、

治療を受けた場合、結果は同じである。

 

その中でも最悪なのはハカイシャハイシャ

と呼ばれ治療技術は何もなく、

 

自分の生活のために平気で

破壊活動をする者を指す。

 

日本の歯医者や歯科医師の大多数が

ハカイシャハイシャなのは

臨床治療に関しては

大学で同じ低レベルの教育しか

受けていないであるからである。

 

また、誠意があっても技術がなければ

通用しないのが歯科治療である。

 

だからつまり、

おれがDENTISTに

なろうとしているのは、

おれの歯を滅茶苦茶にした

歯医者どもへの

ある意味

復讐のためなのである

ということを話した。

 

*****

 

おれは長野県の出身である。

 

木曽というと

知っている人はいるかもしれない。

 

島崎藤村が木曽路はすべて山の中である、

と断言した山奥である。

 

過疎である。

 

日本における医療水準そのままに、

 今も昔もここはとんでもない地方で、

 歯医者はハカイシャハイシャしかおらず

 やりたい放題であった。

 

そこでは破壊活動と

歯科医療行為は同義語であった。

 

おれの歯はハカイシャハイシャに

かかることによって滅茶苦茶にされた。

 

高校入試1週間前から

歯ぐきが腫れて膿が止まらず出はじめた。

 

N という歯医者に行くと、

 

「大丈夫薬で治そう。」と言われた。

 

原因は中1の時、

おれが交通事故で前歯を折った時、

 

このハカイシャハイシャの治療が

滅茶苦茶だったことに因っている。

 

ENDOの処置を好い加減にしておきながら、

保険では白い歯はできない、

と好い加減なことを言って自費で4本、

当時40万円も取ったのであった。

 

高い歯を入れた以上、

歯の中で神経が腐ろうが、

骨が溶けて病巣が大きくなろうが、

たった2年くらいで

やり直すわけにはいかなかったのであった。

 

やり直すにしても、

正しい方法はどうせ知らない。

 

この歯はその後も何度も痛くなり

瘻孔まで出来たが、歯医者を変えても、

この抗生物質投与は変わらなかった。

 

だからおれの体の中には

耐性菌が渦巻いている。

 

アメリカに留学する2カ月前にやはり、

この前歯が痛くなり、

瘻孔からは膿が絶えず出ていた。

 

そのころ通っていた

英語学校の友達が、

自分の通っている

良い歯医者が銀座にあるから、

紹介してあげると言った。

 

天皇陛下の歯医者もしているそうである。

 

この友達の家は田園調布にあり、

父親は銀座で商売を手広くやっていた。

 

信用するには足りる感じである。

 

その頃はまだ溌剌としていた

江添のおやじが学生の時、

何気なく始めたリクルート本社の

裏にある診療所に行くと

いきなり治療が始まった。

 

受付で保険証を出したのに、

帰り際には

あなたの治療は保険では出来ないので、

請求書の送り先を教えてくれ

と言われた。

 

仕方なく実家の住所を書いた。

しっかり抗生物質と痛み止めをくれた。

 

入り口の看板には

各種保険受付とあったのに、

薬までもが自費であった。

 

2回目の治療の前に、この歯医者に、

 

「私の前歯はずっと痛くて

 

膿が出っぱなしだったのはのは

何故でしょうか?」

 

と聞くと、

 

「素人がそんなこと知っている必要はない。」

と言った。

 

「こちらでやっていただければ、

 同じ理由で歯が痛くなることは、

もうありませんか?」

 と聞くと答えは返ってこなかった。

 

会話をなるべくしない方針のようであった。

 

説明も何も無かった。

 

「だが、天皇陛下の歯医者という話である。

 特別に寡黙なのであろうか。

 

まあいいさ。

 

世間の常識では名医のはずだ。」と考えた。

 

治療した歯は全部で20本にもなった。

 

費用は当時の高級外車が

1台買えるほどで、

請求書を受け取ったおやじは0が一つ

間違っているのではないか

と思ったのだそうだ。

 

しかし、

 

間違っていないことが

電話で問い合わせてわかると、

息子の将来を思えば、

天皇陛下の歯医者のような

名医にかかれて、

一生自分の良い歯で過ごすことが

出来るのであれば、

それは金には換えられない

と思って払ったのだそうである。

 

おやじの歯も近医で

滅茶苦茶にされていたから、

歯の痛くなる苦しみはわかっていた。

 

アメリカについて3カ月目、

11月の期末テストの2日前のことである。

 

朝起きると、あの前歯に鈍痛があり、

口の中で嫌な味がした。

 

瘻孔 から排膿していた。

 

そしてその痛さは

朝食も採れない程になり、

ちょうど寮の向かいの部屋が

歯学部の学生の

マイクであったので相談した。

 

すると、

今すぐ大学に行って調べてみよう、

ということになった。

 

歯学部の診療室に行き、

問診を終え、

レントゲンも撮り終え、

口の中の検査も終わり、

教授の来るのを待っていた。

 

その間マイクは何も言わず、

困ったような顔をしていた。

 

おれが何を聞いても、

これは難しいケースで担当の

教授が説明するから待ってくれ、

と言うだけであった。

 

アメリカの歯学部は、

一人一人の学生が

どのような患者を看ているか、

他の学生や教官に解るように

レントゲン写真は誰もが

見える位置に置いてある。

 

いつの間にか、

大勢の学生が

おれのレントゲンを囲んでおり、

中には「歯を見せて下さい。」

と言っておれの歯を

見たがる連中も現れた。

 

皆同じリアクションで、

見ると、ただ溜息をついて、

困った顔をした。

 

いよいよ教授が来た。

 

マイクとは話が着いているらしく

目で合図をしながら、

おれ (Y) に説明を始めた。

 

教授「何故、

歯が痛くなったかわかりますか?」

 

Y「いいえ。3カ月前に東京の銀座で

 天皇陛下の歯医者に

 全て治してもらったはずです。」

 

教授「確かに高額な治療をされたのは、

歯のクラウンに使われている

陶器の技術を見ればわかります。

 

ただ、問題は外ではなく、

歯の中にあります。

 

このレントゲンは

正しい神経の治療をされた歯です。

 

そしてこちらが、あなたの歯ですが、

違いがわかりますか。」

 

Y「正しくされている方は、

根の先まで白くなっていますが、

私の方は途中までしか、行っていません。」

 

教授「その通りです。

そしてあなたの根の先には

こんなに大きな病巣が出来ています。

 

膿が骨を突き抜け

瘻孔までも形成しています。

 

これを治して、

痛みを無くすためには、

もう一度根の治療を

しなければなりません。

 

ENDOです。

 

どのように、

しなければいけないかわかりますか?」

 

Y「クラウンに穴を開けるのですか。」

 

教授「そうです。

そうなると陶器の歯は

どうなるかわかりますか。」

 

Y「やり直しですか?」

 

教授「そうです。」

たった3カ月しか経っていないのに、

ダメになるという事実に愕然とした。

しかし、今現在、痛い以上、

やってもらうしかなかった。

 

Y「わかりました。お願いします。」

 

教授「はい。それでは今すぐかかりますが、

問題はこれだけではありません。

よくレントゲンを見てみましょう。

まず、この歯、そしてこれ。次は...。」

 

 

*****

 

結局、天皇陛下の歯医者がした

20本の歯は全てやり直しになった。

 

たった3カ月で高級外車

一台の金は消えたのである。

 

ENDOの手抜き<<<info click

 

が原因であった。

 

目に見えない歯の中は徹底的に手を抜き、

見える外側は美しく飾りたてる、

これが医療行為なのだろうか。

 

「ぼったくり」という言葉があるが

このような状況のために

あるような言葉ではないか。

 

学生が皆困った顔をして

黙ってしまったのは、

少なくとも

自分がなろうとしている職業人の中に、

こんなひどいことを

平気でする人間がいる

という怒りと、

日本は歯科医療に関しては

非常に遅れている国だという諦念、

そしてそんなことをされた

患者への同情の気持ちからであった。

 

マイクはアメリカなら

こんなハカイシャハイシャは

訴えられて業務停止に確実になる、

と言った。

 

この時の教授も、これは明らかに、

手抜き治療であると

アメリカなら判断されて、

しかるべき手続きが

この歯医者にくだされるだろう、

と言った。

 

しかし、

この歯科医院は1997年現在も

日本の銀座にあり、

自費の多い保険医療機関として

盛業中である。

 

ただ株で失敗して

借金は2億あるそうだ。

 

おれにこのような治療をした

ハカイシャハイシャは

大先生として今でもいる。

 

*****

 

おれが日本の歯医者に

復讐を決めたのは

以上のような体験をしたからであった。

 

この時、

アメリカでやり直した歯は

いまだに快調である。

 

16年前に治して以来、

歯が痛くなったこともないし、

詰めたものが取れたということもない。

 

それはおれが受けたアメリカの治療は

アメリカの中でも名医を

選んでかかったせいでもあろうが、

神経の治療をしても

定期的に歯が痛くなるとか、

詰めたものは1週間で取れ、

かぶしたものは3カ月で取れるという

日本の治療は一体何なんだろうと思う。

 

矯正をすれば4年以上もかかり

終わるや否や数年で元に戻ったり、

ブラケットの跡が

虫歯だらけになったり、

咬み合わせの治療をしたら

顎が痛くなったり、

審美歯科という名のもとに

何でもない歯を削られたり、

挙げ句の果てに歯がなくなると、

インプラントという

予後が全くわからないもの

をやられたりして、

日本人は歯医者によって

破壊と恐怖にさらされていると

痛感する。

*****

おれの身の上話が一段落すると、

TPは、「じゃ、先生がやってくれよ。」

と、おれに言うので、おれはまだ学生で、

あなたの症例のような

難しいのは出来ないのだと話した。

 

コーヘンはニューヨークでも有数の名医で、

おれがあなただったら謝って

コーヘンにやってもらうよ、

と言うと、TPも状況が把握できたようで、

「じゃ、先生から頼んでもらえるかな」

と言った。

 

おれはコーヘンのところへ行き、

事情を説明した。

 

本人も反省しているというと、

「じゃ、やってやるが、

このTPは特別料金にする。」

と言って倍近い値段にした。

 

おれがどうも

ニューヨークジュウと呼ばれる

ユダヤ人になじめなかったのは

このような金銭に対する一面も

影響していると思われる。

 

*****

 

2回目のアポイントメントに

TPは40分遅刻してきた。

 

約束時間の15分過ぎても

TPが現れなかったため、

 

コーヘンは

キャンセル料金を徴収するよう

受付に命令していなくなった。

 

おれは時間があったので待合室で

教科書を見ているとTPが来た。

 

別に急いでいる様子も、

悪びれる様子もない。

 

コーヘンはもう今日は診ないから

キャンセル料を払って帰ってくれ

と言っていたと伝えるとTPは怒りだした。

 

「歯医者がなんで

そんなでけえ態度ができるんだよ!」

 

と言うので、

アメリカと日本の治療形態の説明をした。

 

アメリカは患者毎に

治療内容を考えながら時間を取ります。

 

少なくとも1時間はとるでしょう。

 

今日は2時間でした。

 

それはそれだけのことを計画したからです。

 

できる治療は一度のアポイントメントで

終わらせることはドクターにとっても

患者さんにとっても

メリットのあることだからです。

 

今日あなたが払う金額は

前回お話ししたように2200ドルでした。

 

コーヘンはあなたが寝坊したことにより

2200ドルの損害を受け、

あなたはまだ歯が痛いままです。

 

どんな安手のホテルでも

当日キャンセルやNO SHOWには

キャンセル料をとるでしょう。

 

アメリカでデンティストとの

アポイントメントはとても

重要なものとされています。

 

彼女とのアポイントメントと

同じくらい重要でしょう。

 

しかし、日本はどうでしょうか。

 

あなたと同じ時間に

何人もの患者が予約を持っていたり、

時差があってもそれは

15分くらいであったりします。

 

歯医者も患者から患者を

飛び回っています。

治療時間は長くて10分くらいで、

何回も来させます。

 

治療費は1000円札でおつりがくるほどです。

 

あなたがドタキャンしても

保険請求では

来たことにしますから損はしません。

 

中には詐欺師のような連中がいて、

やってもいないことをやったと

レセプトに書いて不正請求や

架空請求をしまくる連中もいます。

 

つまりセコイ商売をしているわけです。

 

しかし、この不正請求が日本の医療費の

相当な割合になるというのですから

日本の医療制度は詐欺師によって

 破綻にむかっているのです。

 

そして保険治療というのは、

患者が来さえすれば

収入になるわけですから、

なるべく多くの患者を1日に

診ることが日本では目標になります。

 

従って治療の内容は悪くなろうと、

デタラメであろうと

日本の歯医者は気にしません。

 

そもそも

日本の歯医者はアメリカのような

臨床トレーニングを

大学で受けていないため、

歯科医師免許を取っても

何も出来ない者が多く、

就職してから見よう見まねで覚える

という戦慄のキャリアを

積んでいるのです。

 

そのような過程で、

デタラメなことをしても

保険ならやっていける!

 

ということに目覚め、

デタラメな治療をやりまくります。

 

「すぐにだめになった。」

という患者の批判には

「保険だからね。安物買いの銭失いだよ。」

と自分の技術のなさを、

自分がぼったくりに利用している

制度のせいにして逃げます。

 

では今度は自費で

という人には自費で行いますが、

所詮はへたですからすぐにだめになります。

 

「自費なのになぜだめになるんですか?」

 

という問いには、

日本でしか通用しない

歯医者の決まり文句

 

「あなたの歯は弱いんですよ。」

 

で対応します。

 

そして

 

「じゃ、やり直しは保険でやりましょう。」

 

と失敗しても

また保険のせいにできる気楽な方法を、

誠実な顔をして患者にすすめ

ほとぼりをさまそうとします。

 

ここまで話すとTPは、

「先生の話は説得力があるね。」

 と急におれをほめだした。

 

褒め殺しかと思っていると、

「じゃ、罰金払って帰るよ。

つぎはいつ来たらいいのかな?」

と殊勝なことを言った。

 

受付で事情を話して、

キャンセル料を払い、

次のアポイントメントを取って帰った。

 

この後2回のアポイントメントには

ちゃんと時間の5分前には来ていた。

 

話せばわかるやつだった。

 

3回のアポイントメントで

痛みの元になっている病巣のある

2本の治療を行いENDOの過程は終わった。

 

それはTPが

もうニューヨークにはいないから

痛いところだけを治してくれ

と頼んだからである。

 

TPは、

「ヨーロッパにも暫く行くかもしれないので、

 良く持つ材料で開けた穴を塞いで下さい。」

と言った。

 

コーヘンはアマルガムを使った。

 

TPが「どのくらいもちますか」

と聞くと、

コーヘンは「歯が割れるまで。」

と答えた。

 

そして

「割れるのが嫌なら

クラウンにしたほうが良いでしょう。

 ゴールドのね。」

と付け足した。

 

この頃はTPもコーヘンとは

なんとかやれるようになっていた。

04. Conversation

最後のアポイントメントは金曜日であった。

 

午後に授業のない日である。

 

「昼をおごるからさ、どこかに行こうよ。」

 

というTPのオファーを受け入れた。

 

「面白いところへ連れてってよ。」

と言うので

 コロンビア大学本校の近くにある

 ハンガリーレストランのオープンカフェ

(The Hungarian Cafe) に行った。

 

ここはBill 平田が発見した

仲間内しか知らない秘密の場所であった。

 

St. John (セントジョン教会)の前にある。

 

ここでおれは一つのことを言っておく。

 

それはここでおれは自分を偉く見せるために、

どんな内容の話も作り上げることが

出来るということである。

 

多くの自叙伝というのは、そんなものが多い。

 

それをおれは良いことだとは思わない。

 

嘘をつくのはおれのスタイルには合わない。

 

だから、おれは自分が思い出せることだけを、

断片的に書くことにする。

 

直接法での会話は実際の会話であり、

脚色はしていないつもりだ。

 

それでも、もし、おれがえらそうな口調に

なっていると感じられる場合があるのは、

この時、おれは尾崎がしていたことを

全く知らなかったことによる。

 

おれにとって尾崎は、単に年下の、

歯を痛がっている、ちょっとつっぱった

日本からの旅行者にしか過ぎなかった。

 

若者の「教祖」と呼ばれているなんて

想像もつかなかった。

 

そんなことを思わせないほど

尾崎は純粋だった。

 *****

 

TP「先生、いつか日本に帰るわけ?」

 

Y「たぶんね。いつかはわからないけど。

 

それにしてもその先生はやめてくれよ。

まだ学生なんだから。」

 

TP「先生でいいよ。

おれ、先生が日本に帰ってきて、

病院開いたら一番先に行ってやるよ。

 

少なくとも2本もクラウンにする歯があるし。

 

ゴールドだよ。ウハウハだよ。」

 

Y「日本の保険治療は

破壊活動の口実だからしないよ。

 

自由診療のみだから高いと思うよ。」

 

TP「自分の健康と金を

天秤にかけるのはバカのすることだよ。

 

でも金なら問題ないよ。心配すんなよ。」

 

*****

 

TP「先生よお、人生で一番大切な物は何だと思う。」

 

Y「愛だとおもうよ。」

 

TP「よくそんなこと簡単に言えるよね。

あんたやっぱり俺が見込んだだけのことはあるよ。」

 

Y「それはどうも。

自分の体は大切にしないと

愛を広めることはできないよ。

 

だからタバコは止めた方がいいよ。」

 

TP「おふくろみたいなこと言うなよ。

でも言われて嬉しいよ。

 

ところでタバコって具体的に何が悪いわけ。

 

おれの知ってる日本の医者は

ストレス解消のためにはいいからって

自分でも吸ってるけど。」

 

Y「大量に活性酸素を作るからだめなの。

 

活性酸素はDNAのチェインを入れ替えたり、

傷をつけたりして、人間の細胞を正しいものから、

間違ったものに変える悪いやつでね。

 

その病気を一般的にはCAと呼ぶ。

 

日本語ではガンというやつさ。

 

そしてこのDNAチェインは

親から子へと伝達されるから、

タバコを吸ってメチャメチャになった

卵子と精子が結合してできた受精卵は

メチャメチャなDNAを持った子どもとなって

この世に生をうけるということになる。

 

考えただけでも恐い話だね。」

 

TP「わかった。やめるよ。

やめればいいんでしょ。」

 

*****

 

「そんなにコーラばっか飲んだら、

虫歯になるぞ!

コーラはピザを食べるとき、

以外は飲まないのが、

アメリカのいい子だぞ!」

とラージのコークを

がぶ飲みするのを見ておれは注意した。

 

すると

「そんなにコーヒー飲まないの!

飲んだら胃ガンになっちゃうぞ!」

と言い返してきた。

 

そう言った後で、

「本当にコーラのむとやばいわけ?」

と聞くので、

「Dentistは嘘はいいません。

 特に乳幼児の炭酸飲料摂取は

歯と骨にとって致命的です。」

 

と言ったら、

「じゃ、子供ができたら

飲ませちゃだめなんだ。」

 とまじめになった。

*****

この時、カフェで

繰り返し流れていた音楽があった。

 

「この曲は静かでいいよね。

淡々としてるよね。」

 

とTPは言った。

これは、おれが祖母に

何度も繰り返し聞かされた

 馴染みの曲であった。

 

「離ればなれになっていた魂が、

ある目的に向かって行くために、

 一つの集合体になって

強いエネルギーを獲得する」

というテーマの曲である。

 

「ZIPPOLIのアリアだよ。古いバロックだよ。

キリスト教徒の音楽だよ。」

 

と教えてやった。

 

するとTPは、しばらく考えて、

 「この曲を聞いたら、

おれのことを絶対に思い出してくれよ。

 絶対だよ。いいねえ。良い曲だよね。

なんて名前だっけ。この紙に書いてよ。」

 と言って、ペーパーナプキンに曲名を書かせた。

 

だから、今でも、

この曲を聞くとTPの顔が瞼の奥に浮かんでくる。

*****

 

TP「先生さ、好きな言葉ってあるわけ?」

 

Y「“太陽”、“ひとみ”、“白い歯”、“愛”、

“クリスマス”、“誠実”。

 他にもいっぱいあるけど。」

 

TP「“太陽の瞳”か。なんかいい感じだよね。」

 

TP「明るい感じの曲って雰囲気だよね。

 さわるとやけどするかもしんない。」

 

TP「おれ、このタイトルで曲つくってやるよ。」

 

Y「だれによ。」

 

TP「みんなにさ。」

 

Y「勝手にすれば。」

 

TP「先生に会いたくなったら発表するよ。」

*****

 

TP「先生がさ、日本に帰ってさ、

 病院を開いたら判るような

宣伝を出してくれよ。」

 

Y「宣伝はしないと思うけど、

 あなたが心から

リクエストするというのなら、

東京で出ている外人向けの

一番発行部数の多い月刊誌と、

外人向けの電話帳に

1年間宣伝を出してあげてもいいよ。」

 

TP「する。する。魂の奥底からするよ。」

*****

だから、おれは1996年の1年間

TOKYO JOURNALと

YELLOW PAGEに宣伝を出した。

 

しかし、TPはまだ来ない。

*****

このあと2回夜にあった。

一度目は、どこかの港の

シーフードレストランで、

 

二度目、つまり最後に会ったのは

ライムライトという当時ニューヨークで

流行っていたディスコだった。

 

「この雰囲気が自分の曲の中でも

一番好きな曲に似ているんだ。」

 

と言った。

 

喧噪の中で、「これやるよ」といって

自分の曲を吹き込んだという

カセットテープをくれた。

 

30分テープに3曲入っていた。

 

お互いの住所の交換をして別れたが、

それ以来一度も会っていない。

 

たぶんTPもおれもニューヨークを

離れてしまったために

連絡の取りようがなくなったせいだと思う。

 

TPからは、はがきを一度貰ったが、

はがきの住所に返事を出すと

宛名人不在で返ってきた。

 

TPのような日本人の患者は何人もいたが、

結局はその場限りのつき合いであった。

 

まじめにつきあっていると、

結局はこちらが

後悔するような日本人が多かった。

 

だから多くの場合こちらから

連絡を取らず自然消滅させた。

 

しかし、TPの場合はそうではない。

 

いつも気にはなっていた。

 

本当に気になっていたのであれば、

コーヘンの妹に尋ねるとかして、

住所は聞き出せた筈である。

 

当時は勉強が忙しくて

他のことには手が回らなかった、

というのは言い訳にすぎない。

 

もらったテープは何十回も聴いた。

 

それは音楽的な才能が

飛び抜けていると思ったからではない。

 

ギターだけの伴奏でノイズだらけの録音。

 

これならよっぽど地下鉄の駅で

歌っている黒人の方が上手いと思った。

 

テープが伸びて最後はウォークマンの中で

 

スパゲティのようになり、

ロングアイランドの

ランドフィルになった曲たちは、

 

その詞の内容が、おれの心を強く打った。

 

自分がずっと持ち続けていた感情、

しかし、それは

既製社会の秩序を守るためには、

閉ざして、心の中に

しまっておかなければならなかったもの。

 

自分は強く思っているのに、

その表現方法を見いだせなかったもの。

 

これだけ自分の心を

ストレートに表現できる才能には驚いた。

 

特に、最初の曲の中にある

 

「夜の校舎、窓ガラス壊して回った」

 

という一節には共感した。

 

それは、おれが高校生の時、何度も考えて、

結局出来ないことだったからである。

 

要するに、

おれは臆病でTPは勇敢だったのだ。

 

05. Death

7年ほどが過ぎ、

帰国してしばらくして

 御茶ノ水駅前の

CD ショップの前を通ると、

大きなポスターが貼ってあった。

どこかで見覚えのある顔であった。

 

近寄って見ると、TPに似ていた。

 

名前も同じである。

 

その頃おれが

従えていた子分の吉田に

 

「この人は有名なのか。」と聴くと、

 

「超有名ですけど、

もう死んで随分になります。

 

ジャンキーですよ。変なやつですよ。

 

ファンはヤンキーだけですよ。」

と言った。

 

その足で丸善に行き、

TP関係の本を探すと二冊あった。

 

買うと、喫茶滝沢に行って

さっそく読んだ。

 

生まれてはじめて

喫茶店が看板になるまでいた。

 

おれの知っているTPと

世間のTPの評判は一致しない。

 

おれはTPを良い人であると思っている。

 

世間の多くは思っていない。

 

おれはTPは日本を良い方向に導く

才能を持っていると思っている。

 

しかし世間の多くは思っていない。

 

もしかすると、このポスターの人は

TPに良く似ているだけなのかもしれない。

 

もしくはTPはおれをかつぐために

普段から似ていると言われていた、

人気のあった人物を

かたったのかもしれない。

 

そして今は

CITY BANKか国連本部の

課長くらいにはなっていて、

LEXUSを運転しているのかもしれない。

 

しかし、TPがおれに話した葛藤と

伝記の中にある葛藤は似ている。

 

「難破船の少年」の本の話も同じである。

 

おかあさんの餃子のことも同じである。

 

おれがこのTPの話を当時勤めていた

国立大学の付属病院ですると、

TPの評判を知っている大学教授、

教官クラスの医療人は、

 

「その話はあまりしない方が、

君のためになるでしょう。」

 

と口を揃えて言った。

 

あからさまに厭な顔をする者もいた。

 

それは、おれが行う

治療行為は高度なもので、

 アメリカ本土でも

人口の経済的に優位な

トップ1パーセントを対象としており、

日本で同等な位置に属する人は、

TPに対しては、

嫌悪感を持つことはあっても、

好感は持たないであろうというのが、

理由であった。

 

つまり、自分の患者を

減らさないようにするために

黙っていろというのである。

 

この人たちは、

おれのことを心配して

言ってくれているのかもしれないが、

この内容の話を聞く度に、

おれは、こんな考えをするような

人間だけには

絶対ならないようにしようと思った。

 

ただ、一人だけ東京にある

国立大学歯学部の教授で、

 

「その話はいいんでないの。

 どっかに載せれば

患者がいっぱいくるんでないの。」

 

と言ったものがいる。

 

教授のKである。

 

大学でも保険の権化とか

超破壊者とかバカとか呼ばれており、

今だに研修医に向かって

開業は技術うんぬんではなく、

同業者の少ない土地で、

何処からでも見える

大きな看板を出せば儲かる!

というのを

口癖にして説教している。

 

治療の技術とか

内容には全く興味はない。

 

従って、

国立大学付属病院内で

行われている診療なのに、

Kのやっていることは

目をそむけたくなるような

ことばかりである。

 

患者は単に保険の点数であり、

ジャンキーだろうと

ヤンキーだろうと、

保険証を持っていれば、

お客さんだと考えている。

 

従って、

何故おれの行う治療は

1日3人が限界で、

Kの治療は50人でも100人でも

平気なのかの理由が

わからない恐い教授なのであった。

 

こんなものが何故教授になれたのか

全く不思議な大学であり国である。

 

しかも1千万以上の年収は

おれたちの税金から払われている。

 

日本の税金は何故高いのか

教授のKを見てわかった。

06. Navigator

ライムライトでの話にはつづきがある。

 

TPはおれが一番人生で悩んでいた時、

メッセージを持って現れた。

 

それを神の使いとしてだというと、

多くの無宗教の人は嗤うだろうが、

宗教的な人たち、特に古くから続く

キリスト教がDNAの螺旋の中に少しでも

組み込まれている人たちや、

「聖なる予言」と「第十の予言」を読んで

理解できた人たちになら

わかってもらえると思う。

 

当時おれは自分の進む道を迷っていた。 

 

「このままコロンビアを出て

開業すれば儲かるのは確かだろうが、

一流にはなれない気がする。

 

特に日本に帰ったりしたら

絶対になれない。」

 

とおれが言うと、

 

「じゃ辞めて、

好きなとこに行けばいいじゃん。」

 

とTPは言った。

 

「インディアナには

Melvin Lundという教授がいて、

 

この人に習ったら、

たぶん超一流になれると思う。」

 

と言うと、

 

「じゃ、それしかないじゃん。」

 

とマンハッタンを飲みながらTPは言った。

 

「簡単に言ってくれますねぇ。」

 

とおれが困っていると、

 

「だって先生、あんたなら絶対なれるよ。」

 

と励まし始めた。

 

「でも、そうなったら

日本には帰らないと思うよ。」

 

と、またおれが悲観的なことを言うと、

 

「今はそんなことはどうでもいいよ。

 

その大先生のところで

超一流になることが先でしょ。

でも、まあ、そんな心配しなくても、

先生は日本に必ず帰るから。

 

そういう運命に生まれている人だよ。

あんたは。」

 

と、TPはおれの人生が

見えているかのように言った。

 

そして俺の目を見つめるTPの瞳には

 

キラキラ輝く光があって、

 

その言葉をより

説得力のあるものにした。

 

*****

 

この時の会話でおれは転校を決めた。

 

親戚、家族、クラスメイト、

友達等全ての者は反対した。

 

おやじは勘当すると言ったし、

おふくろはコロンビアに

いてくれと泣いて頼んだ。

 

しかし、おれの心は決まっていた。

 

TPの言葉の中に導きを見たからである。

 

TPはいつもUP BEATで話していると

元気づけられることが多かった。

 

おれを良い方へ

良い方へと方向付けてくれた。

 

目標が決まり、舗装した一本の道を

そこまで開通させたとしたら、

アクセル全開で

走りきることは容易なことだ。

 

キリスト教では道を示してくれる人を

NAVIGATORと呼び、最も尊い者とする。

 

それ以降のおれの歴史は

TPの言った通りになっている。

 

今、インディアナへ

転校した話になると、

一番反対したはずのおやじもおふくろも、

本当に思い切った良い決断だった、

と誉める。

 

だからTPはおれにとっては尊く、

かけがえのない恩人である、

それは息子を日本に

呼び戻すことのできた

おれの両親にとっても同じである。

 

おれがもらったカセットテープには

 

Graduation by Yutaka Ozaki

 

と細い油性のサインペンで

殴りつけるように

筆記体で書いてあった。

 

*****

おれが帰国した年、

日本に帰ってこれたのは

尾崎のおかげだと、

おふくろに言った。

 

しばらくして、

木曽からたくさんの

松茸を送ってきたとき、

そのなかの一番大きい包みに

 

「尾崎さんにあげてね」

 

と書いてあったのには困った。

 

おふくろはまだ

尾崎が死んだのを知らない。

 

そして、たぶん、

おれも知ることはないと思う。

 

1996年04月25日 

Norman Yamazaki, DDS.

07. Voice

尾崎の話をインターネットで

発表してから12年が過ぎた。

 

その間、いろいろな事があった。

 

嫌な事も多くあったが

面白い事も多くあった。

 

東京御茶ノ水にある

G.V. BLACK DENTAL OFFICEの

窓の外を見ると眼下に湯島聖堂が見える。

 

この間までこの湯島聖堂を包むように

直径が1m以上のスダジイやクスの大木が

林立して鬱蒼とした森になり

聖堂の建物を半分ほど隠していたが

半年ほど前から伐採作業がはじまり

先週くらいから完全に見えるようになった。

 

今日、明るくなった湯島聖堂にお参りし

拝殿に立つと神田明神からの

霊気の流れてくるのが強く感じられそれは

皇居の宮中三殿に向かっていた。

 

何十年ぶりかに神田明神と

繋がった湯島聖堂を歩いていると

色々な声が聞こえる。

 

尾崎は神になったという声が聞こえた。

 

神農廟に参拝した時、早く逃げろ!

 

という声がしたので

なにかが起こるのだと知った。

 

November 25, 2008

Norman Yamazaki, DDS.

08. Evacuation

それは神様の声がしてから3年後に起こった。

 

2011年の東北大震災である。

 

G.V.BLACK DENTAL OFFICEでは

診療中で、

とても大きく揺れたが、

事前に地震が来るのはわかっていたので、

家具の固定などの

防災対策は終わっていたため、

被害はゼロであった。

 

東日本大震災 地震直後のG.V. BLACK DENTAL OFFICEの様子 患者はアントニオ横浜
東日本大震災 地震直後のG.V. BLACK DENTAL OFFICEの様子 患者はアントニオ横浜

 

しかしながら、

その後の東京の混乱で

診療再開まで1週間以上かかったことや、

今後、東京を襲うであろう

大震災を考慮した結果、

ここは一旦東京から

疎開することにした。

 

疎開先は地震研究所の

ビル平田の調査の結果、

飛騨高山がベストだと言うことで、

震災から約2ヶ月目の5月1日に、

あらかじめ目星を付けていた場所を、

地元の不動産屋に

案内してもらうことになった。

 

2軒見る予定であったが、

最初の家の近所までくると、

神社があり、飛騨高山の中でも

「花の山口」と呼ばれ

桜の名所とされている

山口の枝垂れ桜が満開で、

それがあまりに見事であったので、

何か気配を感じて、

2軒目は見ることもなく、

この家に住むことにした。

尾崎豊の両親は飛騨高山出身で、

母親の実家は

この神社の近くにあることから、

尾崎はきっとここにいて、

神様になっているのだろうと思った。

 

その家は、

この地区を古くから治めていた

豪農池之端三郎左衛門家の本家で、

庭に龍神池があり、

蔵にはお稲荷様がいて、

御蔵稲荷と呼ばれている。

 

その後、「氷菓」という

人気アニメの舞台にもなり、

世界中から聖地巡礼の観光客が

押し寄せるような家であったが、

桜が満開の日にはまだ、

5年以上も人が住んでいなかったので

荒れていた。

 

特に庭はジャングルで、

かつて高山一と言われた

誉れ高い日本庭園の面影はなかった。

 

疎開5年目にして花の咲いたツツジ G.V. BLACK DENTAL OFFICE
疎開5年目にして花の咲いたツツジ G.V. BLACK DENTAL OFFICE

 

家は2ヶ月でリフォームして、

8月から診療を再開した。

 

庭は回復まで

10年くらいかかりそうであった。

 

September 01, 2011

Norman Yamazaki, DDS.